ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2011-08-29

マニラ到着

【2011.07.26】
マニラ滞在時の記録です。

まずマニラについて思ったのは、「やっぱ物騒だ!」ということ。・・・というか、それまで滞在していたバギオの治安が良かったため、どこにいっても相対的に物騒に見えてしまうのかもしれません。

未明の朝4時半にマニラに着いた僕は、バスターミナルからタクシー乗り場へ行くわずか数秒の間に、3人の浮浪者に囲まれ、金銭を要求されました。そのまま無視してタクシーに乗り込んだのですが、一人がタクシーの前に立ちふさがり、発進を許してくれない。タクシーの運転手が「適当に紙幣わたしちゃいなよ」というので窓から20ペソ紙幣を差し出すと、「こんな小額で3人分? ふざけるな!」と逆ギレ。あげくの果てに、数人で窓を叩き出す始末。ちょっと頭に来たので運転手に無理やり出発してもらいましたが、今思えばちょっと危なかったかもしれません。これがもしタクシー運転手までグルのシチュエーションだったとしたら、完全にはめられてましたね。


前述の理由から二日酔いがひどかったので、とりあえず宿を探してきちんと寝ようと思い、タクシー運転手の情報をもとに、安宿をいくつか訪問。しかしながら、夜のマニラはなんだかイメージが怖い! あとで、そこまででもないことに気付いたのですが、のっけから物乞いに囲まれた僕は、こんな時間にもかかわらず、大勢で路地にたむろしているガラの悪い連中に必要以上にビビってしまい(中には、麻薬らしきものを吸っている奴も)、「普通の」ホテルを探すことにしました。

やっとこさホテルをみつけたはいいのですが、「最初のホテルで駄目だったんだから、料金は200ペソ上乗せだ」とボってくるドライバー。文句言っても、喋るくせに「英語はわからねぇ」とだんまりを決め込みます。何とか100ペソの上乗せで済ませたものの、こんな早朝にホテルに入ると、チェックアウトの時間までわずか数時間なのに、それでも一泊分の料金を払わなくてはいけないという不運…。到着早々、ふんだりけったりだ…。

というわけで、朝方に空港に行かなくちゃいけない場合でもない限り、マニラに早朝着、ってのはあまりオススメしません。一番危険なのは、バスターミナルで旅行客を「待ち構えている」連中だと思うので、バスからどかっといっぺんに人が降りるとき、流れに乗ってすぐにタクシーに乗っちゃったほうがいいでしょうね。僕はバス降りてから悠々と一服してからタクシーを捕まえに出たのが良くなかったかもしれない。


北東のケソンで降りればよかったものを、泥酔のため、マニラの大動脈・EDSA通りをぐるっと回って、空港近くまで来てしまいました。ちなみに、EDSAの直径は約13キロ。マニラの西半分は海なので、感覚としては、EDSAの内側と山手線の内側が同じくらいの広さです。
2日後に予定されている、スモーキーマウンテンのスタディーツアーの集合場所を考えると、マニラ首都圏北部・ケソンエリアでバスを降りたほうがよかったのですが、バスの中では完全に酔いつぶれていたので、終点・パサイのターミナルに来てしまいました。幸い、空港の近くなのでホテル探しには困りません。

この日は、飯以外まったく外出をしない、ひきこもり生活でした。部屋やホテルのロビーで、ひたすらネット・読書・旅の記録の整理。

思えば、ずっとルームシェアをしていたので、一人の空間でゆっくりするのは日本を出て以来初めてです。久々に空間を独占できる開放感に浸りながら、学校のみんなとサヨナラしたことを改めて実感して、ちょっと寂しい感じも否めません。


…充分な休憩をとれたので、翌々日から、またマニラ観光の開始です。まずは、スモーキーマウンテンの見学ツアーから。


滞在したCROSSWINDS OCEAN HOTEL。空港近くのAirport.Rd。LRT・MRTの南部起点・タフト、エドゥサ各駅も近く、アジア最大級のショッピングモール、モール・オブ・アジアも徒歩圏内。1Fではネットも通じます。
【※マニラの治安について】
物騒なイメージを書き込みましたが、正直、この到着直後のタイミング以外で危険を感じることは特にありませんでした。ただ、バギオの先生たちが「マニラは物騒だから気をつけろ」「向こうの人間を信用するな」と口をそろえて警告してくれたことを考えると、単に運が良かっただけかもしれません。タクシー運転手との値段交渉でモメることは絶えないと思いますが、夜に見通しの悪い裏路地に入らなければ、そこまで危険でもない、というのが僕の実感です。
【フィリピンの旅 マニラ編】




2011-08-27

最後の夜

【2011.07.25】
BECIを去ったのは、7月25日、月曜日のことでした。もともと、29日金曜日までの3ヶ月プランで申し込んだのですが、フィリピンの歴史をいろいろと調べているうちに、マニラに1週間くらい滞在したいと考えたため、学校での勉強を早めに終わらせることにしたのです。飛行機やビザの関係で、フィリピンを8月あたまに出発しなくてはいけない事情もありました。

週末は、友人が開いてくれたFarewell Partyや、バギオを散策をして過ごし、週明けの月曜日。普通なら学校のある日ですが、僕はお世話になった先生達に手紙を書いたり、バギオで「行きたかったけれどもいけなかった場所」を訪れるつもりでした。

その日はなぜか、朝の5時に目が覚めてしまい、付近を散策。なんだか見覚えのある姿がいるなーと思ったら、バッチメイト(同じ週に入学した友人)のNeyoが朝のマラソンをしている!笑 彼も同じく寝付けなかったとのこと。変な偶然ですが、そのままグリーンバレーを散歩。早朝のグリーンバレーは、朝の光を浴びた夜露がところどころで光って、山並みの景色がとても綺麗に映えます。




部屋に戻って先生達へのFarewell Message 作成。最後の最後なので、文法の間違いが無いように、つい気張ります。ずいぶんとお世話になった人たちへのメッセージなので、慎重に言葉を選びながら、一筆入魂。これが思ったよりも時間がかかってしまったため、午後のバギオ観光を断念。「まぁバギオにはたぶんまた来るだろうから、そんときでいっかー」と、いい加減に予定変更。実際、観光よりも先生たちへの手紙のほうが大切です。

学校で先生達と昼飯を食って、部屋に戻って荷造り。

この日、唯一の予定がT.Jingのグループクラス、補修授業でした。本来、出席の義務はないんですが、先生が「じゃあ、トヨタのFarewell Party ならぬFarewell Class やろっか」と言ってくれたので、喜んで出席。クラスメイトも、なにかと縁のあった韓国人の John と中国人の Sunny だったので、これは出ないわけには行かない。

以前から、なぜか「じゃあTOYOTAの歌を聞かせてもらおうか」って流れになっていたので、好きな曲を3曲熱唱。一応「授業」なので、歌詞のプリントを用意して、英文を読み解いてから、歌います。曲目は、Stievie Wonder の
Isn't She Lovely、The Oasis のRoll with it、Radwimps の『ます。』。『ます。』に関しては日本語部分があるので、英訳を用意していきました。そして、トヨタによるカラオケオンステージ。ひゃっほーい。最高に自己満足な最後の授業だ。




夕方は、夕暮れのグリーンバレーを散歩して、19時からもはやたまり場と化した我がルーム503で最後のパーティ。おなじみのメンバーと、先週来たばかりのNew Studentsを交え、歓談。

バスの時間が迫ってきたので、そろそろ行こうかなー、っておもってたところ、「じゃあそろそろ…」と言い出すルームメイトのタカ。何かと思って彼の取り出したパソコンを見ていると、その画面には、みんなからのビデオレターが。
お世話になった人たち、そして、既にこの学校を去った昔の友人からもメッセージが送れられ、タカによる見事な編集も手伝って、一言一言、僕にメッセージをくれます。

真面目なもの、笑いに走ったもの、人それぞれ様々でしたが、本当にありがたかった。自分で言うのもなんですが、「自分愛されてるなー」って感じて、これは本当に嬉しい贈り物でした。実際、見てるうちに気持ちが高ぶってきて、号泣。「涙が止まらない」って経験は、本当に久しぶりです。旅立ちを祝してくれるのが嬉しいのか、彼らと別れるのがさみしいのか、自分でも気持ちをうまく説明できないのですが、とりあえず「泣く」という行動以外、あの時できることがなかった。そういう、不思議な気持ちです。

その後は詳細をよく覚えていないんですが、なんだかウォッカを数杯一気飲みした(おそらくさせられた)らしく(?)記憶が曖昧です。ただ、バスの時間が迫っていたので、タクシーを捕まえてターミナルへ行き、22時の深夜バスでマニラへ。パーティに参加しなかった友人も何人か見送りに来てくれました。みなさん、本当にありがとう。





…バスに乗ったときは、既に泥酔状態だったので、バスが出発したあとの記憶はいっさいありません。「ルソン中央山岳地帯のトンネルを抜けると、そこはマニラであった」状態。

フィリピンの、バギオという街の、グリーンバレーで過ごした3ヶ月。そしてここで出会った人たちとの思い出は、僕の24年間の人生レベルでも非常に濃く、忘れがたいものでした。「またいつか会おう」って何度も約束して別れましたが、おそらくただの口約束では終わらない縁だなと、そういう不思議な確信が、彼らとの間にはあります。 

バギオには人生のどっかで、必ずもう一度行きます。そのときはみんな、「あー、昔トヨタって奴がいたなー」って思い出してね。トヨタはめちゃんこ喜びます。


Good bye guys!!
※バギオを去った翌日に書いた日記ですが、アップすることなく1ヶ月も放置していた ので、若干加筆して改めて更新しました。



【フィリピンの旅 バギオ編】
・バギオ滞在記 01 -バギオ-
・バギオ滞在記 02 -It's a small world-
・バギオ滞在記 03 -ミッキーマウンテン-
・バギオ滞在記 04 -BBQ-
・バギオ滞在記 05 -ビガン-
・バギオ滞在記 06 -ライブ!!-
・バギオ滞在記 07 -ハウスブレッシング-
・バギオ滞在記 08 -最後の夜-








2011-08-19

『冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行』

友人から、ジム・ロジャーズなる人物について教えてもらいました。僕はビジネスにはあまり興味がないのですが、投資の世界では有名な人物とのこと。なんか聞いたことある名前だなー、って気はしてたんですが、ジョージ・ソロスとクォンタム・ファンドを立ち上げた人物、と聞いて「あー」て思い出しました。

なぜ興味をもったかというと、友人によれば「彼は投資家というかむしろ旅人なんだ」ということ。「彼は世界的に有名な投資家だけど、自分で世界を旅して、そこで自分が見たものを、投資の参考にしている。だから、他人とは違った視点で投資ができるんだ」と。

■ビジネス本×旅行本

自分はどんなに間違っても投資に手をだすことはないと思いますが、「旅」というテーマには反応してしまいました。それでもって、さっそく買ってみたのがこの本。



これは面白い。世の中には「旅行記」があふれていますが、『冒険投資家』は僕がはじめて読むタイプの旅行記です。というのも、この本はやはり、投資家としての側面をもつロジャーズが書いているだけに、世界各地の現状分析が非常にクリアに記されているのです。彼の旅は冷戦構造崩壊前のものですが、「20年以上も前に、いまの国際情勢を予言してやがるー!」と驚くことも多い。例えば、

地球規模の戦いはまだ終わっていない。次の戦いは共産主義と資本主義ではないかもしれない。将来の対決はイスラム教対キリスト教である可能性は充分にある。あらゆるイスラム文化が復活しつつある。それは彼らがイスラム風になりたいからというわけではなく、イスラム教徒を増やすための伝達手段が必要だからだ。人間は裕福だとあまり争わない。イスラムは彼らにとって自らの繁栄とアイデンティティのための唯一のツールなのである。それこそがイスラムの人たちが欲しているものというわけだ。(p67)

まさに、ポスト冷戦、パクス・アメリカーナ後の世界そのものです。話はちょっとそれますが、このキリスト教VSイスラム教の宗教戦争の構図は、フィリピンにも当てはまります。イスラム原理主義のテロリストグループ「アブ・サヤフAb Sayaf」によるミンダナオ島 分離独立闘争がそれで、フィリピン人の中には、「我々はムスリムによって侵略されている」とはっきり断言する人もいました。

ともあれ。ロジャーズの本からは、「世界を理解してやろう」という意思が、強く感じられます。もちろん(僕はあまり興味がないので読み飛ばしましたが)、投資に関するテクニックに関する記述も多数。そういう意味では、旅行本というよりはビジネス本なのかもしれません(そもそも、出版レーベルは日経ビジネス人文庫)。どちらにせよ、非常に知的好奇心を刺激してくれる本です。ビジネス・国際情勢のレポートとしてだけではなく、もちろん、旅行記としても面白い。

旅とは目的地へ到達するための手段だけれど、バイクで行く旅はそれ自体が目的なのだ。行ったことのない場所を駆け、新しい人に邂逅し、冒険し、経験する。これほど素敵なことはない。(p15) 
日課の10キロのジョギングは欠かさず、私が二人分の洗濯をしたが、これは心を落ち着かせるのに役立った。この時点では私が旅を支配しているのではなく、旅が私を支配していた。(p47)

このあたりは、旅人なら絶対に共感しうる文章だと思います。

■旅にはテーマが必要だ

この本を読んで確信しましたけれども、やっぱり旅にはテーマが必要ですね。ロジャーズにとって、それは「投資」であって、その「投資」という窓を通じて、世界を見る。それが彼の旅のスタイルです。バックパッカーにはいろんな人がいます。いろんな人がいてそれぞれ面白いのですけれども、僕が話をしていて面白いな、と思うのは、やっぱり旅のテーマというか、目的、あるいは得意分野を持っている人です。

例えば、欧州放浪旅行で出会ったコックさん。フランス各地を食べ歩きしながら「料理」の勉強をしていました。「建築」をテーマに、各地の有名な建造物を見ながら放浪している学生もいた。バギオの英語学校でも、フィリピンの農業を研究しにきている子がいて、話を聞いていてとても面白かった。テーマをもって旅している人は、それを入り口にその国の文化・風土を理解できるので、話を聞いていて、とても面白い。ちなみに、僕にとってのテーマはその国の「歴史」でしょうか。

もちろん、人間関係だとかゴシップだとか、そういうちょっと「下世話な」話をするのも楽しいのですが、それだけでは、日本の居酒屋で話していても、何の変わりもない。せっかく海外にきているのだから、その国のことを話題にしなければ、僕はもったいないと思う。

そういう意味で、僕は、ロジャーズの旅の仕方は、全ての旅行者、あるいは全ての若者にとって、ロールモデルになると思います。この本を読んでいて、彼は知的好奇心の強い人間なんだな、って思う箇所がいくつかありました。たとえば

こういう旅ではたくさんの食料を持ち運ぶのは不可能だったし、レストランのメニューは当然トルコ語だった。こんな場合いつもするように、私たちは厨房に入っていいかと、英単語の羅列と身振り手振りを組み合わせて尋ねた。彼らは決まってイエスと言った。(p49)

とか。要は、疑問に思ったら、聞いてみる。行きたいと思った場所は、訪ねてみる。そんなロジャーズの旅のスタイル、僕は好きだなってことです。

2011-08-16

韓国人と歴史問題を語るために

僕と韓国人のジョン(English name)が学校で一緒に過ごした時間は、そう長くはない。僕が滞在残り1ヶ月くらいのタイミングで彼が入学してきたと記憶しているので、一緒にいたのはせいぜいそれくらいだ。

それでも、彼と仲良くなったのは、グループクラスが一緒になったこと、ロビーで座る席が近かったことが大きい。お互いの英語力が近かった、というか、どちらかの英語力がどちらかを圧倒していることもなかったので、気楽に話せたというのも理由の一つだろう。そもそも人当たりが良く、かつ知的な彼は、学校内でも友人が多かった。そして、彼の記憶が鮮明に残っている理由の一番は、おそらく「日本と韓国」をテーマにいろいろ話意見を交換したからだ。


ある日、ジョンは僕に日本の「倭寇」について聞いてきた。どうも韓国では、「ニンジャ」や「サムライ」の如く、「ワコー」のイメージがひとつのキャラクターとして定着しているらしい。特に、TVゲームでそれは顕著のようだ。

「倭寇」とは、手っ取り早く言うと日本の海賊だ。

ジョンはそんなキャラクターとしての「倭寇」が好きらしい。「こんど、対馬列島に行きたいんだ。そこは、倭寇の基地があるはずなんだ。何か知らないかい? 対馬にいけば、倭寇に関連した史跡があるんだろう?」

対馬にそんな場所があるかどうかは知らなかったので、正直に「わからない」と答えた。ただ、ジョンの中で倭寇に対して相当変なイメージができあがっている気がしたので、倭寇について、知っている限りのことを教えようと努めた。

「倭寇には前期倭寇と後期倭寇があって、後期はほとんど日本人じゃないんだ。中国人がその大半で、倭寇に参加した朝鮮人だっていた」
「彼らは単純に海賊ってだけじゃなくて、武装商人っていう言い方もありかも」
「これはただの想像だけど、韓国でも探せば海賊の歴史ってあるんじゃないの? 海に面してる地域って、だいたい海賊が発生するでしょ?」

ジョンはそのたびに、「本当?」「そんなの聞くのは初めてだ!」と驚いた。そのあと、会話はだいぶ盛りあった。テーマは主に、対馬の話題から発展して、日本と韓国の観光名所などについてだった。盛り上がっていたので、自分はジョンに思い切って聞いてみることにした。


「日本の統治時代について、ジョンはどう思う?」

日本人と韓国人がおよそ半々の比率で暮らすこの学校において、ある意味タブーとも言えるこの質問に対して返ってきたのは、予期せぬ内容だった。

「あぁ、それはとても難しい質問だ。…でも、僕が思うに、あの当時は帝国主義の時代でしょ。日本が、韓国を植民地化したのは、なんというか…Natural なことだと思うよ」

ここでNatural をどう訳するかは、とてもデリケートな問題だと思う。「自然な流れ」とか「当たり前」とか「仕方がない」とか、いろんなニュアンスで受け取ることができる。ただ、どう解釈するにしても、ジョンの意見はとても「冷静」かつ「客観的」だと僕は思った。そして、驚いた。

あの時代、日本は韓国(李氏朝鮮)の近代化を願った。しかし、閔妃(ミンピ)を初めとする保守派が力を持っていた朝鮮では、金玉均らをはじめとする改革派グループの努力は実を結ばず、朝鮮の自力での近代化はできなかった。

近代化ができない、というのは、当時の国際情勢的には「植民地になるしかない」ということだ。日本にとって、朝鮮半島は国防のためにとても重要な場所だった。朝鮮半島がロシアの植民地になるくらいなら、日本が植民地にするしかない。「とるか、とられるか、2つに1つ」。これが、当時の世界だった。以上が、僕の基本的な認識だ。僕個人の認識であると同時に、かなり客観的な歴史的事実に即した見解であるとも、自負している。

この、「客観的な事実」を受け入れてくれることが、韓国人にとっては難しい。なぜなら、彼らは「被害者」だからだ。そして、「加害者」は僕ら日本人だ。植民地になったのは韓国で、それを支配していたのは日本だ。運良く日本は近代化に明治維新という名の近代化に成功し、列強の一員となった。一方、韓国は近代化に失敗し、日本の植民地になった。

韓国にもプライドはある。日本の植民地になったことが「歴史の流れだった」と割り切って受け入れることは、難しい。まぁ、日本も同じかもしれない。先の戦争でアメリカに敗北し、その後アメリカの属国になったことを「歴史の必然だった」と受け入れることは、自分の中のなにかが許さない。

これまでも韓国人と歴史認識について話したことは何度かある。高校に韓国の姉妹校があった関係で、ホームステイにいったとき。前回の欧州放浪のとき。でも、「当時の状況を考えれば、仕方なかった」論はなかなか受け入れてもらえない。そういった状況論よりも、「日本人は植民地支配の過程で、多くの朝鮮人を殺した」とか「我々から言葉や朝鮮名を奪った」という、自分達が受けた被害について説明するのを好む。

そういうわけで、ジョンの口から、自分の認識ときわめて近い意見がでてきたことは、僕にとってかなりの驚きだった。感情に頼らず、日本の韓国植民地化を「Natural」と言った。すくなくとも、彼の意見は、日本の当時の立場を理解したうえでの発言だ。続けて聞いてみる。

「ジョン、俺は、君の意見はとても客観的で冷静だと思う。でも、そういう意見をもってるのは、韓国ではマイノリティなんじゃないのか?」
「まぁ、世代にもよるよね。ただ、僕らの世代(注:彼は19歳)には、こういう考え方する人間も、そこそこいるよ」

これは、驚きだった。日本では、韓国人は「反日」で当たり前だというムードがある。正直、僕もジョンはこの話題に関しては、日本の非を責めてくるのではないかと思って、それに対してどう反論するか、待ち構えていた部分がなくもなかった。それが、見事に肩透かしを食らった。しかも、彼のような意見を持つ韓国人も、その割合はともかく、確実に存在するのだという。

おそらく、彼の言っていることは本当だろう。感情的には難しくても、「日本の朝鮮植民地化は、当時の状況を考えると自然なことだった」と理屈で理解できる韓国人はそれなりにいるに違いない。



日本では韓国、あるいは中国の反日ムードばかりが報道されるが、こういう韓国人もいることを、日本人はもっと知るべきだ。韓国人の中にも、日本と歴史論争ができるだけの「冷静さ」を兼ね備えた人間は、確実にいる。それを忘れて、感情と感情で対立しあっていても、建設的議論はなにもできない。

僕も含めて、日本人は「韓国人は感情的で、彼らとはまともな歴史論争ができない」と決め付けてはいなかったか。韓国のなかにも、ジョンのように相手の立場にたって物事を考えることのできる人間は、いる。僕たちが語りかけるべきなのは、そういった相手に対してだ。

むろん、政府と政府の喧嘩は、大いにしてくれて結構。国益と国益をかけて闘う外交の場では、韓国政府に遠慮はこれっぽっちもいらない。竹島問題に関しても、日本政府は韓国に遅れをとるべきではない。竹島は日本領であると、しっかり主張して然るべきだ(まぁ、今更民主党政府には何も期待しないけれど)。

ただ、民間レベルでは別だ。僕らは国益を追求する外交官ではない。僕らのようなバックパッカーにとっては、国籍を超えてお互いのパーソナリティーを理解しあうことが最重要課題であり、そのしこりとして「歴史問題」が横たわるのならば、それを取り除くための対話が必要だ。そして、冷静な対話ができる韓国人は、一定数存在することがわかった。僕らは、こういった人たちに対して語りかけなければいけないと思う。




2011-08-08

バギオ案内 -食事編-

3ヶ月暮らした、バギオの案内を書いてみたいと思います。まずは食事編。僕は原則週末以外は外出しないことにしていたので、知っている店には限りがありますけれども、これからバギオに滞在する人のガイドになれば幸いです。

■セッション・マグサイサイエリア

f:id:naotoyota:20110807160123p:image:w450

バギオの目抜き通り、セッションロードと、パブリックマーケットのあるマグサイサイ通り。とりあえずこの辺を歩いていれば、何でも見つかる。

Good Taste
先生に「地元のおいしいレストラン教えて」と聞けば、口をそろえて答えるのがここ。マグサイサイ通りから入るショッピングモールの裏。最初はわかりにくい場所かもしれないが、近くまで行けばいくつか看板がたっているのでおそらくわかるはず。タクシーの運転手にも「Good tasteに行きたい」といえば、大体の運転手は知っている。

ガーリックライスと、バターチキンは名物で、Good Tasteの名に恥じないおいしさ。ホールサイズも充実なので、大人数でも大丈夫。ドギーバックにして持ち帰りも可。24時間営業のため、Kubo Grill(下記参照) → Good taste のコンボは鉄板。ちなみに、近辺は路上喫煙の取り締まりにうるさいので要注意。つかまると300ペソの罰金か、30日間の拘留が待っています。

中華料理屋(正式名称不明)
マルコムスクウェアの西隣のビル1F。近くに超群(チョーキン、中華料理チェーン)もあるが、それとは別物。

はじめ学校の料理に馴染めなかったとき、ここのおかゆには大変助けられた。肉まん・ラーメン・野菜炒めなど、日本でおなじみの中華料理も。値段もリーズナブル。

HODORI
セッションロードからMabini通りに入って左手2F。韓国レストランだが、日本食も食べられる。お通しのわかめ? だったか漬物? だったかが、やたら美味しかった記憶あり。

Oh my gulay
セッションロード沿い、La azotea buildingの最上階。現地風味付けのパスタが名物。内装がなかなか奇抜で、室内にいる感じがまったくしない。その雰囲気は、是非実際にいって確かめてほしい。絶対に楽しめることうけあい。窓際の席は埋まっていることが多いが、最上階から見えるバーナム公園・レガルタ方面の景色はなんともGood。

お酒は扱っていないので、ディナー・パーティには向かないかも。ランチ・お茶にオススメ。Gulay は現地語で「ごちそう」の意味(だった気がする)。

City Light Hotel
レストランSOLAの角を曲がり、バギオ大聖堂の正面入り口前の通りを入るとみえてくる。2Fに雰囲気がなんともいい、普通におしゃれなレストランが。タワーピッチャーで出てくるビールが印象的。友人の誕生日会をここで行った際は、ケーキの持込、バースデーソングの演出もしてくれた融通の良さも。

ただ、BGMの音量が大きいので、じっくり語りたいシチュエーションにはあまり向かないかも。1Fでは、スウィーツが食べられるカフェも。

■レガルタエリア

f:id:naotoyota:20110807160124p:image:w450

現地の人に「レガルタ」といえば符丁のように「あぁ、コリアンタウンね」と返ってくる韓国人街。韓国人生徒が使うことが多いので、BECIの生徒がパーティをやるときは、だいたいこのエリアになりがち。

Cafe will
バーナム公園から伸びるDr Pilar通り沿い。室内席と、テラス席のあるカフェ。お酒も飲め、席も多いので大人数のパーティも可。

Chairman
レガルタとバーナム公園を結ぶ、Carino通り沿い。ビルの3F。見つけにくいので、看板に要注意。

落ち着いた空気の中でライブの楽しめる空間。ただ、ライブの音量しだいで店の雰囲気が変わってくるかもしれない。一度行ったときはだいぶ静かに飲めた記憶があるが、2度目に行ったときはBGMの音量が大きすぎて、あまり落ち着いて話せなかった。

チヂミ
Chairmanと同じ一角。1通り沿いの1Fにあるので見つけやすい韓国料理屋。週末は韓国人客も多く、キャパもそれほど大きいわけではないので、せいぜい7・8人でいくのがベストか。

Kubo Grill
レガルタ通りに面したコリアンレストラン。大きく光る「Kubo Grill」の看板があるので見つけやすいはず。一階は南国風の屋外個室があり、ライブ演奏もあるのでゆったり雰囲気に浸りながら飲める。

…と、おそらくこれが本来の使い方。

ただし、2階に集団席あり、そこでは現地の韓国人・日本人学生が「うるさく」飲んでいることが多い。コールをかけあったり、飲み会ゲームに興じたりと、そこにはフィリピンにおける(特に学生ノリの)韓国社会・日本社会が再現されている。何を隠そう、自分もこのクボグリルで騒いでいたうちの一人。割と「騒がしい」飲み会が好きな面子が集まり、パーっとやりたいときはいつもこのクボグリル。人々はいつしか彼らを「クボ・ジャパン」と呼び、クボ・ジャパンはこのレストランを「聖地」と呼んだという…。嫌と言うほど飲んだ(飲まされた?)マッコリとソジュ(焼酎)の味はまさにunforgettable. oops...

というのはさておき、2階席はキャパが大きいので、パーティにはオススメです。韓国人の女将さんもいい人で、顔を覚えらるとサービスしてくれることも。

■その他

f:id:naotoyota:20110807160125p:image:w450

50's Diner
名前の通り、古き良きアメリカンな雰囲気のレストラン。ハンバーガー、サンドイッチなどの定番が食べられる。値段も手ごろで現地の人にも評判らしく、少し待たないと入れないことが多い。バギオにはMilitary cut offに続く通り沿いと、Leonard Wood通り沿いの2店舗があるので注意。タクシー運転手の間で知名度は高いが、「どっちの?」と聞かれることがある。

ちなみに、下手にサンドイッチを頼むとアホみたいにでかいサイズが出てくるので要注意。一皿で3人分くらいはあります。

Red Lion
50's Diner Leonard Wood店のすぐ隣。自分は一瞬入っただけなので料理・酒に関してはコメントできないが、中にビリヤード台があるため、ビリヤード好きの友達はよく通っていた様子。

Asuri(?)
アズーリ? アズール? ちょっと名前の記憶が不確実。Red Lionと同じ通りを少し入ったところにあるクラブ。日によって人の入りもフロアのノリもまちまちみたいだが、飲んで、踊って、爆音で音楽を聴きたい人にはたまらない若者のたまり場。現地人と仲良くなるには、やはりこういう場所がてっとり早いのかもしれない。

着色料のどぎついアルコールは悪酔いしやすいので注意。翌日、ありえない色のうん●が出てくる可能性大。

CHAYA
バギオで食事処といえば、このCHAYAを抜いて語ることは許されない。その名の通り、日本食レストラン。いちおうレガルタに面してはいるが、コリアンタウンからは少し離れたところにある。タクシーの運転手にいってもわからないことが多いので、BECIの生徒はBen Pilipsis(Green Valleyからダウンタウンに降りる道)からLegardaに入った直後、1つ目の曲がり角のところ、と覚えておくといい。緑色の「CHAYA」の看板が大きく見えるはず。

女将さんこだわりの食材による、懐かしく、そして美味しい日本料理が心身ともに癒してくれる。

料理の美味しさもさることながら、女将・園子さんの人柄を慕って、バギオ在住の様々な人たちが集まってくるのがこのお店のもう一つの特徴。実際、園子ママやここで出会った人たちから聞いた話は、フィリピンの歴史・政治・文化、あるいは人生論にいたるまで、非常に楽しく、刺激になるものばかりだった。したがって、内輪で食事をしにいくのもいいのだけれども、できれば少人数で行って、そこの常連さんたちと絡んで話を聞くことを激しくオススメする。宿泊施設も併設してあり、非常に快適なWi-fi 環境も完備。

…ホント言うことなしの場所です。園子さん、その節は大変お世話になりましたm(_ _)m

詳しくはこちら → CHAYAのホームページ


ということで、お送りしましたバギオ案内 -食事編-。特に英語留学でバギオに来ている日本人にとっては、慣れない環境やストレスが勉強に対する一番の敵だと思います。勉強だけしてても、頭おかしくなっちゃいます。たまにはおいしい飯を食べて、ゆっくりリラックスしてください。


2011-08-06

フィリピン家庭事情

昨日の日記から話をつなげて、フィリピンの家庭事情について触れてみたいと思います。


■大家族制

まず、前にも触れたとおり、フィリピンは基本大家族です。子供が4・5人いるのは当たり前。親戚も、だいたい似た地域に住むことが多く、血縁・地縁・縁戚関係によるコミュニティは非常に強い。マニラ首都圏では多少事情は違うかもしれませんが、僕のいたバギオではそうでした。学校にも、いとこ同士だったり、遠い親戚だっていう先生達が数人がいました。

フランスに招かれたHouse blessingでも、親戚大集合でした。これだけの規模で親戚が一同に会するのは、日本だと冠婚葬祭のときくらいだと思いますが、こっちではそれほど珍しいことでもないそうです。実際、親戚同士だとみんな顔がちょっとずつ似ているので、だんだん本物のフランスがどこにいるのかわからなくなってきて大変でした。リアル間違い探し状態・・・。

【注】ただ、さすがに本当の冠婚葬祭になると、海外労働者が多い、というフィリピン独特の事情から、親戚みんなを集めるのはそれはそれで大変。だいたい親族もれなく集まるには、1週間前後が必要とのこと。
■早期の結婚
結婚年齢が早いのも特徴です。僕くらいの年代(24)だと、たいてい結婚して子供のいる先生が多いですね。これには、カトリックの影響が未だに強く、避妊・中絶が一般的ではないフィリピンならではの事情もあります。これに関しては、リアルタイムで論争の真っただ中でして、reproductive health policy (性や出産に関する健康政策)を進めるアキノ大統領と、カトリック教会側がもめています。

(→ 「避妊普及法案」で論争 フィリピン

宗教的要因のほかに、フィリピン人の結婚が早い理由として、先生が「フィリピンの大学生は暇だから」説(笑)を唱えていたので、それも紹介します。というのも、フィリピンでは大学がだいたい15時くらいに終わり、その後はみんな暇になるらしい。そのあとは、みんなデートに行くのが当たり前なんだと。それくらいしかやることがないんだよ、と。「フィリピンの学生は、放課後Library(図書館)ではなく、Loverary(愛の巣)に行くのさ」ってジョークも教わりました。要は、日本と違って、若い頃の付き合いがそのままダイレクトに結婚につながりやすいフィリピンの事情を自虐的に皮肉ったものらしいですね。

「大家族」「早期の結婚」は、実際に弊害も多いのが現状です。というのも、やはりフィリピンの平均所得は高いとは言えず、にもかかわらず若いうちから子供をつくると、あまり貯金ができない。しかも、何人もの子供をかかえていれば、それだけ教育費もかさむ。結果、暮らしは豊かにならない。これらも、上記の通り政府側がreproductive health を推進する理由です。先生の中にも「若いうちの結婚なんてするもんじゃないわね。自分のやりたいことも、ろくにできない。あなたが羨ましいわ」って愚痴ってくる人がいましたね。そのココロは、本気か否か?

f:id:naotoyota:20110724172719j:image:w150

(▲産休で教壇を離れたT.Joan。お世話になったので寂しかったのですが、帰国直前に無事女の子が生まれたと聞いて、急遽子供の顔を見に自宅までお邪魔しました。歳は僕よりも3つ下の21歳)

ただ、フィリピン人にとっての幸福度の中に「家族」が占める割合は非常に大きく、その先生もなんだかんだ言って旦那さんと子供に囲まれた、とても幸せな暮らしを営んでいるわけです。先ほど言ったとおり、血縁・地縁が強いので、旦那・奥さんともに両働きでも、子供の世話をおばあちゃんがみてくれたりするのです。経済的には苦しいかもしれない。けれども、家族や、地域のコミュニティはしっかり機能していて、その中で幸せを感じて生活できるのが、フィリピン社会です。


■日本とフィリピン
これは、「無縁社会」だの「孤立」だのと叫ばれて久しい日本にとって、ひとつの参考にはなるんではないかと思うのです。マニラ首都圏はどうかわかりませんが、「無縁」なんて言葉は、少なくともバギオでは感じられませんでした。日本とフィリピンでは状況が違いますから、単純に「家族や地域コミュニティを復活させよう」といっても乱暴な話ですけれども、どうしてフィリピンにはそういったものが残っているのか、日本ではなぜそれが失われてしまったのか、それらを検証してみるのも、面白いと思うのです。



また、特に僕らの世代は「働いても給料があがらない世代」だの「仕事が忙しくて恋愛・結婚・子育てもろくにできない世代」だの、いろいろ言われているわけですが、本当にそうなのか? とも思ってしまいます。所得が低くても、忙しくても、周りの助けがあれば子育てはできる、というのは、現地の人たちをみて思いました。恋愛・結婚ができないってのも、このあたりの原因は社会構造的な問題もさることながら、「草食系」という言葉に集約される、日本人の覇気の低下現象にも原因があるのではないかと、僕は思ってしまいます。いや、理屈じゃなくてただの印象論なので反論はうけつけません(逃亡)

ともあれ。

日本からは失われてしまった、地域・親戚のコミュニティが色濃く残っているフィリピン。この国なりの問題をかかえているのも事実ではありますが、人々の暮らしは幸せそうです。「幸せ」の定義は人それぞれですが、僕はこういう社会、好きですね。

2011-08-05

ハウスブレッシング

【2011.07.18】

先生のお宅にお邪魔してきました。招いてくれたのは、T.Fransica。通称フランス。場所は、バギオの北隣にあるラ・トリニダート市(La Trinidad)。バギオ中心部からジプニーで約20分。ベンゲット州の州都でもあります。
f:id:naotoyota:20110805235917p:image:w360
フランスは3ヶ月間ずっとマンツーマンクラスを担当してくれていた先生です。朝いちの授業なのでしょっちゅう遅刻してそのたびに彼女を不機嫌にさせていましたが(I'm so sorry…)、自分の意見をはっきり持っている先生なので、ディスカッションになるとお互いかなり白熱してエキサイティングでした。
f:id:naotoyota:20110717165415j:image:w160
(▲T.Franceとその赤ちゃん)


■親戚大集合
ンゲット州庁舎の裏で待ち合わせ。なんだかフランスに似た若い子がいるなと思ったら、彼女の姪っ子でした。名前はファティマ。彼女の案内に従い、山道を少し進んで到着。
f:id:naotoyota:20110717144738j:image:w250
当初、フランスとその旦那さん、子供達と食事って感じを想像していたのですが、着いてみてびっくり。親戚勢ぞろいで、総勢30人ちかくが出迎えてくれました。え!って感じです。こんな大規模なパーティだなんて聞いてなかった…。なんでも、House Blessingというパーティなんだそうです。カトリック国・フィリピンならではのスタイルですが、なんらかのおめでたい出来事を、親戚一同が集って祝うパーティのことです。この場合、フランスの両親の家の2階部分が完成した(フランスのお父さんは大工さん)、というのが名目。お清めの水も撒いたらしい。
それにしても大家族。まずは、一番目上の人に対して挨拶するのがこの国の礼儀。この場合は、ホストであるフランスのお母さん。相手の手をとって、額にかざします。
f:id:naotoyota:20110717145001j:image:w250
f:id:naotoyota:20110717145805j:image:w250
▲フィリピンの一般家庭料理。似たようなものは店でも食べられますが、やっぱり現地の人が実際に手作りで料理してくれたものを食べるのはなんとも嬉しい体験です。豚肉がめちゃんこ美味い。食事のあとは、お酒もまじえながら雑談タイム。
f:id:naotoyota:20110717160726j:image:w250
f:id:naotoyota:20110717183258j:image:w250
▲フランスの姪っこ・ファティマと、その友人たち。フィリピンでは、家庭科の授業でヘアカットの仕方も学ぶんだとか。友達同士で髪を切りあっている場面を目撃しましたが、その手つきは手馴れたもの。
おじいちゃん世代になると、若干通じなくなりますが、若い世代は当たり前のごとく英語を喋ります。バギオは韓国人人口が多いこともあって、韓国語を勉強する学生も多いみたいです。実際、ファティマも韓国語を勉強中とのこと。また、これだけ親戚が集まると、なかには日本で暮らしたことのある人もいます。フィリピン人の10人に1人は、海外労働経験者。片言の日本語を喋れる親戚もいました。なかなかインターナショナルな一族だ・・・。
フランスとその家族にサヨナラをつげ、せっかく来たラ・トリニダートを散策。フランス(の両親)の家は、山間の渓流沿いに建っています。風景がなんとも格好いい。
f:id:naotoyota:20110717143259j:image:w250
f:id:naotoyota:20110717184654j:image:w250
▲渓流をはさんで広がる家々。どことなく、僕の田舎の福島県・飯坂温泉の摺上川を髣髴とさせる景色です。
f:id:naotoyota:20110717185334j:image:w250
▲ベンゲット州庁舎。この日は偶然、元知事の公葬に遭遇。ちなみに、バギオも地理的にはベンゲット州の内部に位置していますが、独立した都市なので、行政的にはベンゲット州には含まれません。
f:id:naotoyota:20110717185208j:image:w250
▲州庁舎は高台に位置しており、ダウンタウンを見下ろせる。
それにしても、現地の人たちの生活が垣間見える非常に興味深い体験でした。誘ってくれたフランスと受け入れてくれたその家族一同には、感謝です。

続く → フィリピン家庭事情


2011-08-03

ライブ!!

【2011.07.15】
学校で、ライブをやる機会に恵まれました。校内で、「Activity」と呼ばれる活動が開始されたのがきっかけです。スピーチコンテストや簡単なゲームをみんなでやろうって試みなんですが、その幕間に、楽器のできる有志でバンドを結成し、数曲を披露。

編成は、メインボーカル、コーラス隊、リードギター、サイドギター、ドラムです。僕はドラマーとして参加。ただし…

本物のドラムセットは使えません(笑)

そもそも、本番の2日前にいきなりやれ、といわれたので、用意する時間がなかったのがひとつ。さらに、ギターもアコースティックなので、これでドラムどかどか叩いたら、おそらくアンプもなくパワードされてないギターの音がかき消されてしまうに違いない…。
というわけで、実際に使ったのが、これ(↓)
f:id:naotoyota:20110714022012j:image:w250
学校の周辺から拾ってきたジャンクパーツとその他もろもろで、急遽Fake Drum Set を作成(笑)
国籍、年齢問わず、みんなが楽しめそうな曲、ということで、ラインナップは下記の5曲に決定

・Obladi Oblada (Beatles)
・Yesterday once more (Carpenters)
・Top of the world (Carpenters)
・Stand by me (Ben.E.King)
・Hello, Goodbye (Beatles)
当バンドのプロデューサー兼ベーシスト、Arataによる独断により、バンド名はいつの間にかTOYOTA COMPANYに決定済み。

■メンバー紹介

Taka (メインボーカル)
f:id:naotoyota:20110714191809j:image:w250
類まれなる歌唱力で会場を沸かせたTOYOTA COMPANYの魂。2日の準備期間で5曲もものにできたのは、彼の英語力によるところが大きい。当日は彼女の誕生日でもあったため、ちゃっかりBirthday songをみんなの前で熱唱。

Perfume & DJ (バックコーラス)
f:id:naotoyota:20110714170100j:image:w250
f:id:naotoyota:20110714170014j:image:w250
キーボード・打ち込みなど、どうしても音が足りない当バンドに、コーラスによって援護射撃を加えた後方支援部隊。特にハモリが大切なビートルズの曲においては、欠かせない役割を演じた。DJはオーディエンスのリクエストを受け、急遽ボーカルも担当することに。

Neyo (リードギター)
f:id:naotoyota:20110714165547j:image:w250
サブカルとSKEをこよなく愛する筑波大生。頭もよくギターの腕も確かだが、なぜかいじられ役に回ることが多い。関西弁を駆使した鋭いツッコミには定評がある。口癖 "Noway" は、彼の別名としても定着。

Arata (サイドギター、というかベース)
f:id:naotoyota:20110714170240j:image:w250
ベース兼プロデューサー。後に伝説となるメンバーを招集した、TOYOTA COMPANYの生みの親。Neyoとさわやかフォークデュオを組む。当初「Sasha Children」だった当バンドの名前は、彼によっていつの間にか「TOYOTA COMPANY」に変わっていた。

TOYOTA (ドラム)
f:id:naotoyota:20110714165559j:image:w250
バンドの背骨であるドラムを担当するが、「Can't play the instruments without drinking」という厄介な信念により、演奏のリズムをめちゃくちゃにした張本人。校内で飲んではいけません。

STONE (ドラムセットの一部)
どうしても配置が難しいイミテーションドラムの一部となり、バンドの音を支えた縁の下の力持ち。メンバー紹介の際も、「Part of the drums」と紹介されたある意味一番おいしい役どころ。一応、役割としては、Hi-Hatを想定。放っておくと勝手にいろいろ拾ってくる癖があり、今回急造のドラムセットを組めたのは、彼の功績によるところが大きい。練習部屋を提供してくれたのも彼。


■学園祭ノリ


自分たちなりには、たった2日の準備期間にしてはよくやったと思います。夜遅くまでA4に集まって練習した日々。ドラムセットのパーツを探し、音のバランスを探り、みんなでハモリの練習をした2日間。まさかフィリピンにきてこんなことをやるなんてことになるとは思いませんでしたけれども、学園祭の下準備をしているみたいで、学生時代に戻った気分でした。いやぁ、青春やぁ…。
f:id:naotoyota:20110714012238j:image:w250
当日も、フィリピン人先生サイドのノリが非常によく、会場の雰囲気としては非常に演奏しやすかったのにも助けられました。今回は「Activity」がメインで、僕らのライブはあくまでサイドメニューみたいなもんなんですけれども、一体感のある会場で、とてもやりがいがありました。ガラクタのドラムセットも、意外とウケがよかったのがなんともおいしい。「ああいうのでも演奏できるあたり、本物だよね」とか、気遣って声かけてくれた人たちに感謝です。いや、僕は全然へたっぴのドラマーなんです、本当に(笑)

選曲も、オーソドックスでしたけれども、それだけに記憶にしっかりと定着しました。この面子で部屋で飲んでいると、いつの間にか合唱が始っちゃうあのノリが大好きです。やっぱり音楽は、国境を越える。このライブをやった翌日、ルームメイトでもあったArataが学校でのプログラムを終え、次の国へと旅立っていきました。最後の思い出に、みんなで演奏。…なかなか、良い別れ方だ(笑)
f:id:naotoyota:20110714203130j:image:w500
Special Thanks : Lee & Brad for cooperating our practice, making a record of us, and wonderful dance!