ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2008-06-29

すきっ腹にウォッカを少々

【承前】 アウステルリッツ前編 -チェコ遭難-

疲れた足取りでプラッツの街へと戻る。もう21時を回っていた。雪も降っているし、当然街を歩く人影は見えない。とりあえず何かを食べたかったが、民家ばかりで食堂らしき建物は見当たらない。
ようやく、それらしい看板のたった建物を見つけた。他には見当たらない。とにかくおなかが減っていたので、そこへ入ることにした。

入ってみると、そこは食堂ではなく、居酒屋だった。カウンターに店主とビールのサーバーやグラスが並び、テーブルにいくつかのグループが座っていた。メニューを見ても、食事らしきものはない。唯一、酒のつまみなのか、カウンターにポテトチップスが並んでいた。

この際、腹にたまれば何でも良かったので、ポテチを頼むことにした。居酒屋でポテチだけというのもアレなので、ビールを一杯頼む。疲れた体にビールはとても美味しくて大口で飲んだが、こんなすきっ腹で一気に飲んだら酔いが回ってしまうと思って、ゆっくり飲むことにした。


重いバックパックを下ろしてテーブルに座ると、入り口付近に体格の良い帽子をかぶった男と、背の高い細い男が二人、座っていた。こっちをもの珍しそうに見ている。それもそうだろう。見慣れぬ黄色人種が、こんな雪の夜に大きなバックを背負って一人でやってきたのだ。

目が合ったので、挨拶してみると、二人は自分のほうに擦り寄ってきた。既に酔っていたようで、高いテンションで話しかけられたが、チェコ語はわからない。英語はどうだろうと思って話しかけてみても、通じない。

自然と、会話はジェスチャー頼りになる。よって、以降の会話は、なんとなくこういっているんだろう、という自分の想像である。たぶん、正確ではない。

大きいほうの男が、「これでもどうだ」と小さなショットグラスを差し出してきた。

においからして、ウォッカだ。ジェスチャーからみて、これでも飲んで体を温めろということらしい。たぶん、コートに雪が張り付き凍っていたのをを見て、気を使ってくれたのだと思う。ショットグラスで出されたということは一気に飲み干すのが礼儀なのだろうか?たぶんここでイッキ飲みをしたら、相当酔いが回るだろうなとは思ったが、せっかくの気遣いなので、応じることにした。

「どうだ、体が暖かくなっただろう?」
「うん、こりゃきくね」
「お前、なかなか良い飲みっぷりだな。マスター、同じものをもう一杯頼む。あと、俺の分も」
マスターに同じものを注文するしぐさを見て、「いかん」と思ったが、言いたいことが上手く伝わらない。
「いいか、こうやるんだ」
大柄の男はショットグラスを持った手のひじを上げ、自分に真似をする様に促した。どうも、チェコ式の乾杯の様だ。2人で飲み干すと、その後で握手をし、抱き合って、お互いの耳元でキスを鳴らす。
小さなグラスだったが、2杯だけでだいぶ喉が熱くなった。後で何かで読んだのだが、チェコのウォッカは、ロシアのものよりも強いらしい。いつの間にか、というかあっという間に酔いが回ってきた。自分は基本的に笑い上戸なので、酔うとなんでも楽しくなってきてしまう。言葉もろくに通じなかったが、現地人との会話は楽しかった。

大柄の男は名をバレイチェクと言うらしい。年は50代くらいに見えた。たぶんこのプラッツの人間なら、ナポレオンの名前を出せば話のタネになると思って現地の発音風に「ナプーレァ、ナプーレァ」と連発してみると、どうも通じたみたいで、彼がなにやら語り出した。内容はわからないが。

酔って上機嫌になった彼は、どんどんウォッカを頼みだした。そしてまた例の乾杯をする。これの繰り返し。楽しかったが、すきっ腹にこのウォッカの畳み掛けはきつかった。テーブルに伝票が置いてあり、何かを注文するごとに、マスターがそこへチェックを入れるのだが、ウォッカを頼むごとにチェックされるのはバレイチェクの伝票だった。おごってもらっていることになるので、断るのも失礼だ。腹を満たすためにここへきたのに、腹は満ちずに、酔いだけ回っていく。

言葉がお互いに通じないので、バレイチェクは歌を歌いだした。細い男とマスターも加わって、合唱が始まる。何度も何度も同じ歌を歌い、遂には自分も一緒に歌ったので、この歌は今でも歌える。自分も言葉に頼らない何らかの方法でコミュニケーションをとろうとして、自分の旅ノートをみせた。そこには、メモのほかに、自分の描いた絵があったからだ。絵なら、言葉がわからなくても解る。
バレイチェクは喜んでくれたが、一番面白がっていたのは自分で鏡を見ながら書いた自画像だった。
「お前、なかなか上手だな。お前の顔にそっくりだ。なぁ、俺の似顔絵も描いてくれよ」
妙な展開になってしまったが、酒をおごられた恩もあるので、バレイチェクの似顔絵を書いてあげることにした。西洋人の顔は書きなれていないのでなかなか苦労したが、出来上がったものをみせると彼はそれをいたく気に入ったらしく、マスターにその絵を壁に張るように言った。
というわけで、この居酒屋にはもしかしたら、今でも自分が書いたバレイチェクの似顔絵が飾ってあるかもしれない(笑) 確か、絵に日付とToyotaというサインを入れたので、プラッツの街に行く人がいたら(いるのか?)是非ご覧になっていただきたい。

何杯飲んだか正確に覚えてはいないが、相当きつかった。視界がおぼろげになって、完全に酔った。正直にいうと、トイレに行って何回か吐いている。自分は酒は好きだが、すきっ腹にウォッカのイッキ飲みを重ねて平然としていられるほど強くはない。たぶん、吐かなかったら完全に潰れていたと思う。大学のサークルのおかげで吐くのに慣れていたことに、心底感謝した。

欧州放浪の旅では何度も酒を飲んだが、吐くまで飲んだのは、唯一この日だけだ。アウステルリッツの大地を果てしなく歩いた後で、へとへとに疲れた体でこんなに泥酔するハメに陥るとは、考えてもいなかった。日本でも、ここまで酔いが回ったことはないかもしれない。もしかしたら、この日は人生で一番胃を痛めつけた日かもしれないのだ。

それにしても、最終電車はここから30分くらい歩いた駅から23時頃に出る。そろそろ店を出ないとまずいと思ったが、正直、この状態でまた雪の中を歩く自信はない。第一、バレイチェクのテンションが高く、容易に返してはくれそうにない。自分の悪いクセなのだが、酔うと楽しくなって、もうどうでも良くなってしまうというか、その場の勢いで物事を済ませてしまうところがある。帰る宿のことは考えずに、しばらく飲み続けた。・・・one shot と、vomit を繰り返しながら。

【続く】 アウステルリッツ後編 -プラッツの恩人-

2008-06-17

チェコ遭難

07年11月15日のこと。
チェコの、スラフコフ・ウ・ブルナ Slavkov u Brnaという町を歩いていた。ドイツ名、アウステルリッツ Austerlitz。「三帝会戦」の名で有名な、ナポレオン戦争の大一番。欧州大陸の覇権を巡る、ヨーロッパ版・関ヶ原の戦いの舞台である。
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(▲スラフコフ宮殿。現在は博物館。アウステルリッツ関連の展示も盛り沢山)

夕方まで博物館を見学した自分は、学芸員の人から「少し歩いたプラッツ Prace という町に、戦いの記念碑がある」と聞いて、それを目指して歩いていた。周囲の景色は、山と地平線が全て。バスは2時間に一本レベルの、田舎の町。かといって、タクシーを使うほどの贅沢はできない。旅費節約の為に、今日は宿提供の朝食しか食べていない。半分だけ食べて、残りは袋に入れて、明日の朝食にしようと思っていた。そんな貧乏旅行。

…歩けど歩けど、なかなか着かない。

2時間歩いて気付いた。旅行の定番・「すぐそこ現象」だ。地元人の「すぐそこ」と、strangerの「すぐそこ」は全然違う。チェコ・モラビア地方の田舎で暮らす人と、世界有数の東京都市圏に住む人間の「すぐそこ」も、全く違う。

着かない。


雪が降り出し、それはやがて吹雪へと姿を変える。街道沿いを歩いていたので、ヒッチハイクをしようと思ったが、車なんて1時間に1台通るかどうかが関の山。ようやくすれ違った車は、吹雪に隠れた自分の姿を見つけられずに、遠くへと去っていった。

歩くしかない。

が、約30キロあるバックパックを背負って、肩は限界。泥と雪の道を歩き続けて、足もふらついてきた。吹雪に吹き付けられて、体中がかじかむ。なによりも、空腹が耐え難い。

半分残していた、食料の存在を思い出した。バックパックに手を伸ばす。

…ない。

たぶん、さっきバックパックに防水カバーをかけたときだ。吹雪で手元の視界すらかすんでいた。不幸中の幸い。かろうじて、1つのりんごが難を逃れ、バックに残っていた。芯までかぶりつくくらいに、残さず口に入れる。この際、腹を満たせるものなら何だってかまわない。

それでも、まだ目的地は見えない。休めば楽になれるのだろうが、生存本能がその判断に「NO」と
いう答えを突きつける。この疲労と寒さの中で休んだら、本当の意味で「楽」になりかねない。それくらい、強い吹雪に体は弱められていた。落とすくらいならきちんと朝食を摂っておくべきだったが、今更どうしようもない。歩くしかない。

思えば、200年前にこの地で戦った兵士達も、この様な感覚を味わったのだろう。パリを出発し、アルプスを迂回してイタリア・オーストリアでの連戦の果てに、この大地を同じように歩いた。車も鉄道も発明されてない時代、使える移動手段は、士官や騎兵でもない限り、唯一自分の足だけ。

背嚢(=バックパック) を背負い、空腹に耐えて歩く兵士達。自分の境遇と重なる。補給も送れ、以前の戦場で負傷した兵士も多かったことだろう。五体満足で歩いていられるだけ、自分は恵まれているといえる。これだけの思いをして、やっとたどり着いた決戦の場で、たった一発の銃弾と、たった一本のサーベルが、簡単すぎるくらいに、あっさりと人の命を奪ってゆく。これが戦争なのだ。前線から離れ、戦略地図とにらみ合うだけの高級参謀とは、違う世界。何億もの屍を土台として、歴史は積み重なってゆく。そんな当たり前の事実を、今になってやっと思い出した。
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そんなことを考えながらさらに1時間歩いて、心に希望がわいてきた。地平線の果てに、うっすらと光が見える。たぶんあれが、記念碑のある町・プラッツだろう。もう何も考える必要はない。機械の様に命令を実行する兵士の如く、ただ前に、足を動かせばいい。ただそれだけだ。そう考えると、少し気が楽になった。

さらに2時間と少し歩いて、やっと目的地についた。吹雪で記念碑の全体像は見えないが、ともかくもここが、アウステルリッツの戦いの主戦場・プラッツ(旧プラッツェン高地)だ。きっとこの下にも、数多くの死体が埋まっているのだろう。
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プラッツの高台からは、歩いてきた道が、雪にさえぎられながらも、うっすらと道路沿いの街頭で確認できた。これだけの距離を歩いたことに、自分で驚く。少なくとも、地平線よりも向こうから、自分は歩いてきた。人の生存本能は、なかなか侮れない。

ようやくたどり着いた目的地。眠くならないように注意しながら、頭の中で200年前の戦いを再現する。実際の戦いは、12月02日。今日は11月15日。近い。200年前の兵士達も味わったであろう、この吹雪を体験したことは、無駄ではなかったような、そんな気持ちになれた。

歴史は文章で勉強するものではない。体で学んでナンボだ。静かな興奮で忘れていた、空腹の限界に気付く。地図を確認すると、ここからなら、約2キロ歩けば駅がある。その前に、何か食べよう。もう限界だ。

そう思って、プラッツの町に向かうことにした。「町」という表現ですら大げさに感じられる、「集落」といった規模の場所だが、こんな所でも、食堂のひとつくらいはあるだろう。メニューには何があるだろう。まずはグラーシュスープで体を温めよう。

そんな想像をしながら、早足でプラッツの町へと向かう。…その判断は間違いだったことは、まだ知る由もなく。

【続く】
アウステルリッツ中編 -すきっ腹にウオトカを少々-
アウステルリッツ後編 -プラッツの恩人-