ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2011-05-27

日本統治時代まで

【フィリピン歴史物語 01】

フィリピンの歴史について、少し書こうかと思います。というのも、ここでは現地で暮らしているフィリピン人から「生」の情報をもらえるので、例えば、「あの大統領はよかった」とか「あの事件はこう考えられている」といった、本だけでは得ることのできない現地の声を反映した歴史が書ける気がするからです。

どこから書き始めるべきか迷うところですが、現代史にマトをしぼって書きます。ただその前に一応、今日の記事ではそれまでのフィリピンの歴史をさらっと書いておきます。本格的なスタートは次回以降にまわして、今日はプロローグ的なあつかいの記事を書こうかと。

■スペイン統治時代

フィリピンはそもそも、フェルディナンド・マゼランが世界周航の過程で発見(1521年)して以来、スペインの植民地でした。フィリピンとは、フェリペ2世(スペイン最盛期の国王として有名)の名に由来します。

19世紀後半、世界航路やフィリピン中産階級が拡大したことにより、知識層がスペインへ留学することが一般的になると、欧米で自由主義思想を学んだ留学生などを中心に、スペインからの独立を目指すムーブメントが起きます。その中心にいたのが、マルセル・デル・ピラールや、ホセ・リサールです。リサールは世界史の教科書にものってますね。彼は現在でもフィリピン独立の父として国の英雄でして、いたるところにリサール公園、リサール通りがあります。彼が処刑された12月30日も、フィリピンでは「リサールの日」といって、国民の休日となっています。

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(▲ショッピングモールで見かけたリサールのTシャツ。フィリピンの国民的英雄)

彼らの反スペイン闘争は、結論から言うと成功はしませんでした。独立運動のシンボルであるリサールは逮捕され、それをきっかけに彼の意思を継いでスペイン打倒と独立を目指す秘密結社カティプナンが結成されますが、創立メンバーのアンドレ・ボニファシオエミリオ・アギナルドの主導権争いもあり、組織は一枚岩ではありませんでした。独立を実現することはできませんでしたが、彼らの反スペイン闘争はその後もしばらく続きます。

ちなみに、スペインの植民地だったことから、フィリピンの宗教は今でもカトリックが80%以上を占めています。アジアでは唯一のキリスト教国でもあります。

■スペインからアメリカ植民地へ

状況が大きく変化したのは、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争、1898年)がきっかけです。要は、カリブ海・太平洋方面に進出したいアメリカと、すでにそこに植民地をもつスペインとの帝国主義国家間の覇権争いですが、このときにアメリカは当時香港に亡命していたアギナルドに目をつけ、フィリピンの独立を認めさせます。スペイン vs アメリカ・フィリピンという構図です。

しかし、米西戦争の講和条約であるパリ条約の内容は、アギナルドら独立運動家を失望させるものでした。そこには、スペインからアメリカにフィリピンを譲渡すると記されており、フィリピン人にとっては、支配者がスペインからアメリカに変わっただけのことでしかありません。ここから、彼らの反スペイン闘争は反米闘争へと性格を変え(アメリカ・フィリピン戦争、米比戦争)、1899年にはアギナルドを初代大統領とするフィリピン第一共和国が成立します。ただ、その後アメリカはその支配を強め、20世紀のはじめには完全にアメリカの植民地となりました。

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(▲初代大統領、エミリオ・アギナルド。反米闘争に敗れ隠棲するが、太平洋戦争が始まると日本軍に協力し、それが原因で後に逮捕された)

最初は力ずくでフィリピンを統治していたアメリカですが、徐々にそのスタイルを変えていきます。1916年のフィリピン自治法では、将来的な独立の宣言と、議会の整備、フィリピン人の政治参加拡大が実現しました。フランクリン・ルーズベルト政権下の1934年にはフィリピン独立法が制定され、翌1935年には、憲法の制定と、マニュエル・ケソンを首班とするフィリピン・コモンウェルスが誕生します。この時期にアメリカが軟化したのは、おそらく米比間の自由貿易体制を確立し、世界恐慌(1929年-)に対処するためにブロック経済圏を強化したかった事情があるのでしょう。

親米政権が誕生した一方で、共産主義の影もフィリピンに忍び寄ります。のちにフィリピンの政治に大きな影響を与えることになる共産主義が力をつけだしたしたのも、この時期のことでした。

■日本統治時代をどう考えるか

1941年12月8日、真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が始まると、日本軍がフィリピンへも上陸し、日本統治時代へと突入します。

日本軍にとって太平洋戦争の目的のうちのひとつは、東南アジア諸国に眠る豊かな資源を獲得することでした。メインターゲットは、いわゆる蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)に眠る石油です。油が無くては、飛行機は飛ばせません。飛行機が飛ばせなくては、アメリカとは戦えません。日本にとってフィリピン進出は、蘭印へと進軍するための足場を築くため、という位置づけです。

この開戦直後の東南アジア諸国への進出を「南方作戦」といいます。日本軍は電撃的なスピードで東南アジア諸国を制圧していますが、ここフィリピンにおいては、日本軍はかなりの苦戦を強いられ、予定の45日を大きく過ぎた150日を要してフィリピンを支配下におさめました。このとき、現地の米軍司令官だったダグラス・マッカーサーが ”I shall return” というキメ台詞をはいたのは有名な話。彼はのちにGHQ最高司令官として日本を占領。フィリピンで日本軍に追いやられた雪辱をはたました。

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(▲フィリピン米軍司令官ダグラス・マッカーサー。彼はフィリピンでも有名人。ちなみに、彼の父であるアーサーは初代フィリピン軍政総督を勤めた軍人で、親子2代にわたってフィリピンとは縁があった)

学校の先生などに聞いてみたところ、日本の統治時代に関して、フィリピンでは正直あまり評判が良くないようです。理由をあげると
  • バターン死の行進や従軍慰安婦など、日本軍が現地で行った非人道的行為が強烈に印象に残ったため、日本軍は残虐だったというイメージが固定化している
  • アメリカはフィリピンのエリート層を親米化させることに成功していたので、アメリカと比較したときにどうしても日本軍にマイナスのイメージがまとわりつきやすい
  • そもそもフィリピンを戦場にし、多くの現地人が犠牲になったのは日本が原因である
といったところ。アメリカのプロパガンダのせいもあるのでしょうが、現地では思っていた以上に、日本軍は残虐だったというイメージが定着している印象があります。「いや、日本軍は東南アジアでインフラを整え、教育制度を充実させた。プラスの側面もあったはずだ」という意見もあるかもしれません。もちろんその通りです。僕もどちらかというと保守派なので、日本の負の側面だけを不必要に強調する意見には組しません。

ただここフィリピンにおいては、日本が現地に与えた影響は、マイナスがプラスを凌駕しているように思えるのが実のところです。むしろ、フィリピンにとって有用なインフラを整えたのはほとんどアメリカで、その点では現地人はアメリカに対して感謝をしています。

僕はフィリピンに関しては、過去の日本の行いに対して正直に申し訳なく思います。フィリピン人に対して「日本はいい行いもした」といっても彼らといい関係を築く助けにはなりませんし、むしろ彼らの感情を逆なでするだけかもしれません。他の国では日本の行いがプラスに働いた面もあるでしょうけれども、少なくともフィリピンでは日本の行いはマイナスの側面が多かった、というのが現地人の生の声を踏まえたうえでの、僕のスタンスです。

また、日本統治時代を経験した世代の間では、いまだに日本の評判はよろしくないというのが実情とのこと。ただ幸いなことに、若い世代は日本に対してそれなりに好感をもっているようです。「日本」といわれれば、出稼ぎに行く国、いつか行ってみたい国という、良いイメージが大半で、過去の歴史を引き合いに出して日本を非難する若いフィリピン人には、僕はまだ一度も遭遇したことがありません。日本の過去の行いに関してはいい印象をもたれてはいないようですが、あくまで過去は過去として割り切っているフィリピン人が多いようです。

■第3共和国時代のはじまり

さて、そんな日本統治時代ですが、日本の敗戦とともに幕を閉じます。日本軍が撤退したことで、再度アメリカの殖民地に戻るのですが、その後すぐに、独立を果たします。1946年、第3共和国の成立です。ですがこれはあくまで形式的な独立にすぎず、アメリカに経済的に依存する旧植民地としての構造はそのまま残ったため、かつて日本軍に抵抗していたゲリラ勢力は、アメリカと協力関係にある政府への反乱を開始します。

ちなみに、第2共和国については触れませんでしたが、太平洋戦争中、日本軍が現地にたてた傀儡政権がそれです。


この反政府組織をどう扱うか、というのが戦後フィリピンが直面した大問題なのですが、それを解決したラモン・マグサイサイという大統領の話から、次回の物語を始めたいと思います。

続く→「フィリピンの戦後事情

2011-05-24

ジプニー

今日は、フィリピンの交通事情について書きます。

「フィリピンの」とはいったものの、僕は今までマニラに一瞬立ち寄り、そのままバギオに滞在して現在2週間目なので、実際フィリピン全土の交通事情を把握しているわけではありません。ただ、フィリピン全土で見かけることができる、この国特有の面白い乗り物があるので、それについて、書いてみようかと。

そもそも、フィリピンは7017の島からなる島国なので、鉄道はあまり発達していません。唯一ルソン島にはフィリピン国鉄が路線をもっていますが、島から島への移動は船か飛行機、内陸はバスで移動というのが一般的なスタイルです。
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(▲フィリピン国鉄路線図 Wikipediaから拝借。残念ながら、今いるバギオには路線が延びていません)

実際、僕もマニラからバギオまでは高速バスを使用しました。都市から都市の間では、高速バスの路線網が充実していますが、街中で活躍するのが、ジプニー Gypny です。
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見てのとおり、非常にハデですね。外見はバスの運転手の好みでそれぞれにカラーリングされているので、まったく同じ外装のジプニーは、無いといっても過言ではありません。なかには、日本のアニメのキャラクターが描かれたジプニーもあります。

乗り方ですが、非常にアバウトです。一応、人の集まりやすい交差点の前にはバス停みたいなものがあるのですが、好きな場所で止め、好きな場所で降りることができます。乗ったら、まず行き先を告げる。料金は距離によって変わるので、それに応じた金額を払います。降りるときは、「パラー(ポ)」といえばとめてくれます(「ポ」はタガログ語で敬意をあらわす言葉)。

ただし、日本のバスのように整理券の発券機があったり、パスモが使えたりなんてことは、もちろんありません。運賃は、運転手に直接渡します。

上の写真はジプニーの車内の様子ですが、非常に狭いです。しかも、だいたい混んでいるので、後ろのほうに座ると、車内前方の運転手まで届かない。そんなときは、客同士の手渡しリレーで、運転手まで運賃を届けてもらいます。おつりがあるときは、また逆のコースで返ってきます。

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(▲ジプニーの客室。客室が満杯になったら、車体後方の手すりにぶらさがります。)

こうやってさらっと文章で書いちゃうと簡単ですが、これが結構すごいんです。なにがって、運転手が。

運転しながら、行き先を聞いて瞬時に料金を計算する。運賃が回ってきたら、片手でハンドルを握りながら、片手でおつりを取り出し、それを片手で返す。しかもマニュアル車なので、その間のギアチェンジも忘れません。
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はっきりいって、フィリピンの道路事情は、かなり荒いです。車線変更のウインカーなんてほとんど出しませんし、少しでも幅があれば、平気で割り込んできます。日本の感覚を残したままフィリピンで車に乗ると、正直かなり怖いですね。そんな中で、運転・運賃計算・おつりの取り出しを同時並行でこなす運転手を見たときは、かなり驚きました。

ここバギオでは、タクシーも日本と比べてだいぶリーズナブル(例えば、学校~ダウンタウン約5キロ間でだいたい60ペソ=約120円)なのですが、ジプニーはもっと安い(13ペソ)ので、現地では欠かせない交通手段です。

そんなジプニーですが、こういったスタイルの乗り合いバスが普及したのには、フィリピン特有の事情があります。ジプニーの車体のほとんどは、アメリカ軍が昔使用していたジープの払い下げです。そもそも、ジプニー(Jeepney)とは、 Jeep と乗り合いタクシーを意味する Jitney の合成語です。

フィリピンは以前、アメリカの植民地でした(1898 - 1946年)。戦後も冷戦構造のもと、ベトナム・中国など対共産圏への防波堤としての役目を負い、アメリカの重要な同盟国として機能してきた歴史があります。交通手段からも、フィリピンの歴史が見えてきます。


2011-05-22

It’s a small world !!

思いがけないところで知り合いと遭遇する、なんてことがたまにあります。それは例えば、渋谷駅前の雑踏の中で偶然すれ違ったり、初めて入った店の向かいの席に友達が座っていたり、「なんでお前、こんなところにいるんだよ?」って、お互いに不思議に思ってしまう遭遇です。

そんなことが、さっそく起こりました。しかも海外で。

僕が今いる語学学校の生徒の中に、かつての知り合いがいたのです。彼は、以前ブログでも紹介した「300人301脚」ギネス挑戦イベントで知り合った大学生でした。名前はタクちゃん。イベントのあと、同じグループだった僕らは一緒に飲みに行ったので、彼のことはよく覚えていました。

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▲300人301脚のイベントにて。写真上段、右から2番目がタクちゃん

300人301脚のイベントは、昨年(2010年11月)のことでした。飲み会でタクちゃんは「僕は来年フィリピンの大学に留学するんですよ」と話していたので、そのとき「俺も来年フィリピンの英語学校にいくからさ、もしかしたらどっかで会うかもしれないね」と冗談半分で話していたのですが、まさか現実になるとは…。実際、学校で彼と再会したときは、本当に驚きでした。そもそも、自分と同じ時期にマニラの大学に留学することは聞いていたのですけれども、まさかその前に、バギオの語学学校で英語の集中特訓をしているとは知りませんでしたから。

昨日、タクちゃんはここでの勉強期間を終え、首都マニラへと旅立ちました。アテネオ大学(フィリピンではかなりの名門校!)で、国際政治を学ぶそうです。ぜひとも、がんばってほしい。

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▲昨日のFarewell partyにて

僕は基本的に、人間関係は時間に比例してどんどん深まっていくと思っています。ですが、少ない時間の中でも、思いがけないシチュエーションで再会をはたすと、それだけで親近感がぐっと増しますね。
そういえば前回の欧州放浪でも、ワルシャワで知り合った韓国人バックパッカーと、約束もなんもなしにローマの道端で再開したことがありました。しかも、その約1ヶ月後にまたパリの宿で偶然再会。3ヶ月以内で、約束もなしにヨーロッパの3都市で遭遇です。

世界は、意外と小さい。

この語学学校には、僕みたいに卒業後、放浪の旅に出る人がけっこういます。おそらく、どこかでまた、思いがけない再会が僕を待っていることでしょう。


2011-05-18

バギオ

僕が今いるバギオは、フィリピン諸島で最も大きい島である、ルソン島の北部に位置しています。ここでの生活が始まって、約10日がたちました。今日は、このバギオについて書いてみたいと思います。

■谷の町・バギオ


この街の特徴を一言で言えば、「高地にある」ということ。

ですから、ここバギオの気温は、他のフィリピンの都市と比べてかなり涼しいのです。僕はまずマニラ空港について、そこから長距離バスでバギオまで来たのですが、マニラでは、まだ5月であるにもかかわらず、日本の夏のような暑さを感じました。そこにいるだけで汗が噴出す暑さです。実際、僕を迎えに来てくれたスタッフに聞いたところ、36度もありました。

ですが、ここバギオでは、かなり涼しく暮らしています。5月の平均気温は16度。服装も、軽め長袖か、もしくは半そで・短パンでも充分、といった感じでしょうか。むしろ、夜は寒いくらいですね。

高地にあることから、天候が変わりやすいのも特徴です。霧、というか、おそらく雲のせいなのでしょうが、晴れていたと思ったら、いきなり暗くなって、小雨が降りだします。午前中にいい天気だと思って布団を干したまま外出すると、帰ってきたときにびしょ濡れになっていた、なんてこともありました。

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(▲深い霧に覆われたグリーンバレー(後述)。10メートル先も見えない)

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(▲天気が変わりやすいことを示すわかりやすい写真。写真左側の地域ではおそらく雨か、濃霧に見舞われているはずですが、右側は快晴です)

この気温のおかげで、バギオは平均気温の高いフィリピンでは避暑地として有名であり、3月から5月にかけての期間は、大統領府などの政府機関が首都マニラからここへと移転してきます。このことから、バギオは「Summer Capital」とも呼ばれています。

■ダウンタウン


現地ではバギオの町の中心部を総称して「ダウンタウン」と呼んでいます。ここには鉄道駅はないので、バギオは駅を中心に広がる街のつくりにはなっていません。事実上の街の中心は、セッション通り Session Street と、バーナム公園 Burnham Park です。セッションストリート沿いには、多くの建物が並んでいますし、バーナムパークの周辺にも、多くの露店がならんでいます。

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(▲バーナム公園。レンタサイクルが人気。実際には、バギオではこの公園以外で自転車をみることはまずありません。高低差の激しいここバギオでは、日本の長崎がそうであるように、自転車は普及していないようです)

もうひとつ、特にバギオに滞在する人間にとって外せない拠点が、巨大ショッピングモール、SMバギオです。日本のそれと比べても、かなりの規模を誇りますが、スーパー、ATM、両替所などいった、われわれのような外国人にとっても欠かせない施設がここにはあります。


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高地に位置するバギオですが、ダウンタウンは、山に囲まれたくぼ地にあります。低い盆地から、山並みにあわせて町並みが360度に広がっているのが、この街のだいたいのイメージでしょうか。

■グリーンバレー

今僕が英語を勉強しているBECI,Baguio English Communication Instituteも、ダウンタウンからだいたい5キロほど離れた、グリーンバレー Green Valley という高台にあります。Google Earthで確認したところ、町の中心部の標高が約1450メートルなのに対して、ここは約1600メートル。ダウンタウンを見下ろすことのできる、なかなか良い場所にあります。

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(▲高台に位置する学校周辺からは、のどかな景色を見ることができる)

また、現地の建物と比べて、かなり豪華な家が立ち並ぶ高級住宅街でもあります。実際、ここにすんでいるだけでは、あまり「フィリピンらしさ」を感じませんね。家のつくりもアメリカンな雰囲気ですし、もちろん現地人も住んではいますが、歩いていて会うのは、同じ学校の生徒のほうが圧倒的に多い。

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(▲僕の住む、Garden Villa5。日本ではとてもこんな良い住宅には住めない…)

学校での生活についてはいずれ別の記事で詳しく書くと思いますが、月~金は授業があり、飯も校内でとれるので、グリーンバレーをでることはほとんどありません。ただ、土日は授業も休みで、金土の夜は門限もないなので、外出する生徒が多数です。

僕も先週の土曜は、バッチメイト(一緒の日に入学した人をこう呼ぶ)とダウンタウンまで行ってきましたが、学校からダウンタウンまでの道を歩きながら、やっと自分がフィリピンにいることを実感できました。グリーンバレーを離れると、町並みがなんとなくアジアンです。僕は一応バックパッカーを名乗ってはいますけれども、行ったことがあるのはほとんどヨーロッパで、アジアでいったことがあるのは韓国だけ。ヨーロッパの町並みを思い出しながら比較すると、東南アジアの町並みの特徴が浮き彫りになって、なかなか興味深い道のりでした。

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(▲アジアを感じさせる町並み)

ちなみに、学校からダウンタウンまで、バッチメイトと喋りつつ、写真を撮りつつ、日差しの強い日だったので時には休憩もしつつ、だらだら歩いて約90分かかりました。ただひたすら歩けば、1時間程度の道のりでしょう。ここの生徒はほとんどがタクシーやジプニー(Gypny 現地の乗り合いバス)を使って移動しますが、道は峠を通っているので、場所によっては、ダウンタウンを見下ろせる良い景色が写真に収められます。良い運動にもなるので、たまには徒歩での移動も試みてはみてはいかがでしょうか。

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(▲ダウンタウンに向かう道の途中。右手奥の小高い山が、グリーンバレー)


2011-05-15

旅の始まり


突然ですが今、フィリピンにいます。バギオ(Baguio)という街です。フィリピンは7107の島から構成される島国ですが、バギオは首都マニラがあるルソン島の中心部に位置しています。


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バギオで何をしているのか。

ズバリ、英語の勉強です。現地の英語学校に通っています。



フィリピンで英語?

と疑問に思われる方もいらっしゃるかと思いますが、フィリピンは実は、アメリカ・イギリスに次いで世界で3番目に英語人口の多い国なのです。しかも、他の英語圏の国と比べて、格段に物価が安いのが売り。まだ滞在1週間目なので、現地の物価の感覚をつかみきれていませんが、例えばタバコは1箱30~40ペソ。日本円で約60~80円くらいでしょうか。出国前、日本ではタバコが1箱400円前後でしたから、5分の1の価格でタバコが買えます。

そんなフィリピンの環境をうまく利用して、ここフィリピンには英語学校がたくさんあります。自分の通っている学校は、学費・食費・宿泊費込みで1ヶ月¥65000。

わお。日本で暮らすよりも安い。しかも英語の勉強ができる。

実は、アメリカなどの英語圏に留学する学生の多い中国・韓国では、留学前にフィリピンで英語を勉強してから、向こうにいく、というのが最近はトレンドなんだとか。

では、なぜ英語を勉強するのか。

今回の記事の主題はまさにそこにあるのですけれども、またバックパッカーとして世界を放浪するためです。前回の欧州放浪では、3ヶ月間向こうで過ごしましたが、今回は3・4年のスパンの持久戦で世界を一周してこようかと考えています。もちろん、それだけの期間を海外で過ごせるほどのお金はもっていないので、現地でワーキングホリデーなどをしながら、「現地に住む」ということも視野に入れて、計画を練っています。

現地に住む。

これこそが、前回の欧州放浪とは決定的に違っている点です。前回の放浪では、自分なりに精一杯楽しんで、勉強して、いい出会いにも恵まれて、だいぶ満足しているのですが、もう少し英語力があれば、もっと豊かな旅になっていただろう、という思いも禁じえません。前回の旅は、移動の繰り返しでしたけれども、同じところに長期滞在して、現地の生活に溶け込もうと思ったら、それなりの語学力は必要不可欠です。


  • もっと海外の人とうまくコミュニケーションをとりたい。
  • 海外の人たちが何を考え、何を感じているのか、もっともっと知りたい。
  • 日本のそれと比べて圧倒的な量を誇る、英語ネット圏の情報を有効活用したい。
  • トラブルに巻き込まれても、自分ひとりでそれを処理できるだけの英語力がほしい。

こんなふうにいろいろと考えた結果、まずは旅の最初に、集中的に英語を勉強しようと思ったのです。先週、5月6日に日本を出発。同日深夜にここバギオにたどり着き、9日から授業開始。今日、ちょうど1週間がたちました。

やはり言語というものは、使ってないとどんどん忘れちゃうものです。前回の旅(2007.11~2008.01)から数えて、約3年たっていますから、今は英語を話すためのリハビリをしている感じでしょうか。1週間たって、今ようやくですが、英語を話ための感覚を取り戻しつつあります。まずは3年前の英語力を取り戻してから、ここから更に、レベルアップしなければなりません。





長い長い旅は、まだ始まったばかり。

これから、どんな世界が自分を待っているのか。

これから、どんな景色を見ることができるのか。

これから、どんな人たちと出会うことができるのだろうか。





想像はふくらむばかりです。