ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2009-10-14

『日本の難点』

先日書いた「小さな政府・大きな社会」の話、そういえば以前に読んだ宮台真司の『日本の難点』にも書いてあったなー、と思ったら、いろいろと詳しく書いてありました。




こうした状況を最初に概念化したのは、新自由主義を標榜するサッチャー政権とメイジャー政権下で大臣を歴任した保守党政治家ダグラス・ハード男爵の「能動的市民社会性」という概念です。具体的には家族や地域や宗教的結社に見られる相互扶助(が支える社会的包摂)を指しています。
「能動的市民社会性」や「市民的相互扶助」の概念は、労働党系政治学者デビッド・グリーンから保守党系政治学者バーナード・クリックを経て労働党系社会学者アンソニー・ギデンズに継承されます。新自由主義はもともと“「小さな政府」で行くぶん「大きな社会で包摂せよ」”という枠組だったのです。
家族や地域や宗教的結社の相互扶助―あるいはそこに見られるビクトリア朝的伝統―をベースに、“「大きな社会」で包摂せよ”というメッセージですから、市場原理主義とは似ても似つかないものです。ネオリベとして揶揄される枠組は、「小さな政府」を市場原理主義として誤解したものに過ぎません。
その意味で、元々の新自由主義と、いわゆるネオリベとは区別しなければなりません。ネオリベ=市場原理主義は、「小さな政府」&「小さな社会」の枠組です。新自由主義の「小さな政府」&「大きな社会」の枠組とは全く違います。(中略)
むろん不人気さゆえにこの看板は用いませんが、その意味ではアンソニー・ギデンズも新自由主義者だといえます。(P133-135)
アンソニー・ギデンズの唱えた「第3の道」は、ダグラス・ハードの唱えた「小さな政府・大きな社会」の枠組みを継承したもので、合ってたんですね。いやぁ、すっきりと謎が解けて良かった。


2009-10-13

『日本流ファシズムのススメ。』

田原総一郎を司会に、佐藤優と宮台真司の対談です。



本書のメインテーマとはすこし離れるかもしれませんが、印象に残った点を抜粋します。

■小さな政府・大きな社会

宮台:新自由主義といえば市場原理主義と勘違いされがちですが、もともとはまったく違うものです。サッチャー政権ならびにメージャー政権のときにいろんな大臣を歴任したダグラス・ハード男爵が言い出したことなんですね。
論点はふたつあって、ひとつは、財政が破綻したから財政を立て直すべきで、福祉国家主義はもう無理だということ。しかし、もうひとつあります。福祉国家化によって働かずにタダ飯を食らうような輩が、社会を空洞化させてしまうということです。
(中略)いずれにせよ、破たんした財政の立て直しの観点と、空洞化した社会の立て直しの観点から、小さな政府を主張したんですね。
ただし、市場原理主義とは違います。小さな政府にしちゃった部分をカバーするために、大きな社会をつくりましょうと提唱したのが、元祖新自由主義者のダグラス・ハードです。大きな社会とは、これすなわち、相互扶助によって包摂性がある社会ということです。(P21.22)
今、日本で「小さな政府」というと小泉政権時代の一連の改革だとか、それによって生じた格差の拡大、地方の疲弊など、マイナスなイメージしか湧いて聞いませんが、こういわれて初めてなるほど、と思いました。本来、小さな政府の大前提として、包摂性のある大きな社会が存在しなければならない。財政を立て直すために、政府の機能は小さくする。ただし、そのぶん大きな社会で国家全体のレベルを維持する。このあたり、社会を強化することが国家を強化することにつながる、という佐藤優の『国家論』の内容とも一致します。

宮台は包摂性のある社会の実例として、貴族が救貧院や学校・病院をつくって貧民を助けるイギリス・ビクトリア朝の伝統や、中国・ユダヤ社会における血縁ネットワークをあげています。たしかに、このような社会では、政府が対応しきれなかった問題を社会が解決してくれるわけです。いわば、社会的な勝者・強者が敗者・弱者を救ってくれる訳ですから、小さな政府でもやっていけるわけです。

しかし、地域性や人と人とのつながりが失われつつある日本は、いわば「小さな政府、小さな社会」となってしまっているわけで、政府が解決しきれない問題は、社会も対応できないと。佐藤優が、ときどき「ホリエモンもあれだけ儲かっておいて、貧しい人にいくらかの寄付なり援助なりをしていたら、逮捕されることはなかったんじゃないか」といったことを発言していたと思いますが、今の日本では、勝者・強者が敗者・弱者を放ったらかし、という包摂性のない社会になってしまっているからこそ、小さな政府が問題なのでしょう。

今回の自民党総裁選でも、やや暴走ぎみの感があった河野太郎が小さな政府論を唱えていましたが、小さな政府論者の人たちは、単に「財政がもたないから」とか、「自由競争が大切」とかいうよりも、まず大きな社会の創設を提唱してから、「じゃあ、小さな政府でいこう」って言ったほうが、聞こえがいいんじゃないでしょうか。

民主党との対比して、小さな政府路線は、対立軸としては明確でわかりやすいのですが、どうも日本国民の間には、小さな政府という言葉がもたらすイメージに対してアレルギー反応というか、もう止めてくれ、というのが一般的だと思います。「大きな社会・小さな政府」というフレーズなら、多少聞こえもいいと思うのですが、小泉路線を継承しようって考え方の皆さん、どうでしょう?


■ = 第3の道?


…と、ここまで書いてふと疑問が浮かんだのですが、「小さな政府・大きな政府」の枠組みとは、イギリスの社会学者・アンソニー・ギデンズが唱え、ブレア政権の政策として採用された「第3の道 The third way」の考え方とは違うのでしょうか?

第3の道、とは、「ゆりかごから墓場まで」の標語に象徴される、イギリス労働党型の高福祉社会(第1の道)でもなく、サッチャー保守党型の規制緩和・国有企業民営化路線(一般に想像されるところの新自由主義)でもなく、市場の効率を認めつつも、国家が機会の平等を保障する、いわば両者の複合型のような路線のことです。

第1の道が「大きな政府・大きな社会」、第2の道が「小さな政府・小さな社会」だとすれば、いわゆる「第3の道」路線は「小さな政府・大きな社会」の枠組みになるのではないでしょうか?現に、ブレアも左派・労働党の政治家でありながら市場の機能を多用しましたし(=小さな政府)、一方で、社会的コミュニティーの充実にも関心を寄せました(=大きな社会)。

・・・とすると、先ほど宮台が元祖新自由主義者として紹介したダグラス・ハードが気になります。彼は保守党でサッチャーに仕えた政治家で、「第3の道」路線を採用したブレア労働党とは敵対するはずなのですが…。結局、「第3の道」路線のブレア労働党も、保守党のダグラス・ハードも、「小さな政府・大きな社会」の枠組みでは一緒ってこと?



(追記:宮台真司の『日本の難点』によれば、上記の内容であってました。詳しくはこちら