ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2009-11-23

『覇王の家』

読書メーターのマイ読了本リストによれば、ダントツで読んだ冊数が多いわりに、レビューを書いたことが無かった司馬遼太郎。徳川家康とその三河武士団を描いた『覇王の家』を読んだので、ちょっと感想を書いてみます。新潮文庫より、上下巻。




本書では家康の生い立ちから死までを描いていますが、秀吉と戦った小牧・長久手の闘いを最後に、豊臣政権時代 - 関が原の闘い - 大阪の陣あたりは完全にスっ飛ばされています。そのあたりは、(まだ読んでいませんが)他の作品、『関が原』や『城塞』などにゆずったということでしょうか。したがって、秀吉の死後、権謀術数を駆使して天下人に上り詰める、一般的な家康の狡猾なイメージとは、違った部分について、多く触れられており、ちょっと意外な印象を持ちました。

特に上巻では、(チェックを入れずに読んでいたので、具体的な箇所を忘れてしまい、引用が出来ないのですが)信長の同盟者として、ただひたすら律儀に、馬鹿正直に生きる家康像が描かれています。今年の大河ドラマ、『天地人』なんかをみていると、松方弘樹の演技もあって、憎たらしい陰謀家のイメージが先行してしまいますが、むしろ家康の前半生は、律義者だけに多くの損をし、それがゆえに戦国の世を生き残った印象を持ちました。

■日本人の原型としての家康


ここからは引用ありでいきますが、家康についての評論が、どうもそのまま日本人論に通じてしまってる部分がいくつかあったので、紹介してみたいと思います。
かれ(家康)は不幸なほどに独創性薄くうまれついていた。つねに先人がやった事例を慎重に選択して模倣した。
(中略)結局は模倣家というのは、才能の質よりも多分に性格なのかもしれない。家康はむしろ独創を激しくおそれるところがあった。独創的な案とは、多量の危険性をもち、それを実行することはサイコロを投げるようなもので、いわば賭博であった。模倣ならば、すでにテスト済みの案であり、安全性は高い。
(中略)しかも徳川幕府は、進歩と独創を最大の罪悪として、三百年間、それを抑圧しつづけた。あらたに道具を発明する者があればそれを禁じ、新説に対しては妖言・異説としてそれを禁じた。異とは独創のことである。異を立ててはならないというのが徳川幕府史をつらぬくところの一大政治思想であり、そのもとはことごとく家康がつくった。家康の性格がそうさせたものとみていい。(下巻P64、65)
この、模倣に関しては才能があるのに独創的な案を嫌う、というのは、日本人のイメージとも重なる気がします。よく日本人は、トップに追いつくまでには凄まじい勢いを発揮するのに、1位になったとたんにオリジナリティを発揮できずに没落する、と言われます。現に、明治維新後も凄まじい勢いで欧米列強に追いつき、敗戦後も奇跡的な高度経済成長を成し遂げましたが、その後は混迷の時代を迎えました。

「独創を最大の罪悪」とするのも、スタンドプレーを嫌い、周囲との協調性を第一に重んじる日本人像とも重なりますし、今日の日本人の原型は、徳川幕府300年間、ひいては家康の性格にあるのではないか、という気がします。
日本歴史というものは、中国やヨーロッパの概念で言う英雄を一人も生んでいない。そのような、神が生んだとしか言いようのない天才的自己肥大の精神や行動を許容して社会そのものが感応し作動する条件が、日本の地理的・社会的風土のなかにはすくないためであるかもしれない。それはそれで、日本社会のおもしろさだとは思うのだが、要するにこの稿の主人公は、歴史を変えたというその作業のわりには、中国やヨーロッパの概念の英雄からもっとも遠い存在なのである。(P365)
この小説では、家康に英雄的気質がない、ということに関して一貫して触れています。先に触れた、独創性を嫌い、もっぱら模倣に徹した部分もそうです。ただ、このあたりも、個人の資質に頼った戦い方よりも、組織の力強さで戦う日本人の気質に通じる部分があるように思います。

戦国時代を終わらせた人間を描いた小説であるはずなのに、『竜馬がゆく』のように、主人公に感情移入できる壮快さがまるでないのが、この本の印象です。その意味で、この小説のタイトルに出てくる「覇王」という表現は、司馬さんも「少し大げさすぎるかもしれない」とあとがきで触れているように、家康に最も遠い形容のような気がしました。

2009-11-18

『ローマから日本がみえる』

『ローマ人の物語』の塩野七生による、ローマ本。全体を通してローマの誕生から興亡まで触れていますが、『ローマ人の物語』をそのまま凝縮したような内容…になっているわけではありません。



本書を通じての全体のテーマは、「真の改革とは何か」です。ローマの歴史のうち、改革や変化の時代に、著者の力が込められている気がします。読んでいて、ローマの歴史とは、

  • 新たなる問題の発生
  • →それを解決するための改革
  • →その弊害や新しい状況下で新たな問題発生
  • →また改革
の繰り返しなんだということがよくわかりました。著者も、「改革」を論ずるにあたって念頭に日本の現状があるらしく、昨今の日本の状況と照らし合わせてみて、なるほど、と思うことがたくさんありました。ちなみに本書の発刊は2005年6月となっていますが、改稿元の『痛快! ローマ学』の発刊は2002年12月。日本中に「改革」の言葉が鳴り響いた、小泉政権時代の真っただ中に書かれた本です。ちなみに現在は、文庫になっているそうです。

■真の改革とは再構築リストラクチャリング

ともすれば改革とは古い殻を脱ぎ捨てて、新しい制度を起こすことだと思われがちです。しかし、真の改革とは結局のところ、リストラクチャリング、つまり再構築をすることであり、カエサルが行なおうとしたのも、それに他なりませんでした。
どんな民族であろうと、どんな組織であろうと、自分たちの体質にまったくないものを外部から持ってきて移植してうまくいくはずもない。たとえ一時は劇的な成功を収めたとしても、土壌に合わない改革では定着はまずもってむずかしい。
したがって、改革とはまず自分たちが持っている資質や特質の、どれを生かし、どれを捨てて組み合わせていくかという再構築の形をとるしかないのです。(P216)
…とはいっても、改革は単に思い切りがよければそれでいいのかといえば、けっしてそうではない。
なぜならば、それぞれの国家や組織にはそれぞれの歴史と伝統があり、これを無視した改革をおこなってもうまくいくはずがないからです。
自分の手持ちカードがなんであるかをじっと見据え、それらの中で現在でも通用するものと、もはや通用しなくなったものを分類する。そして、今でも通用するカードを組み合わせて最大の効果を狙う。これがまさに再構築するという意味での真のリストラだと私は考えます。(P293)

おそらく、著者の頭の中には、アメリカ流の新自由主義経済を導入しようとした小泉改革が念頭にあるのでしょう。改革、というと、古いものを捨てて新しいものを取り入れるとだと思われがちですが、「今でも通用するカード」なら、手札に加えて用いていい。手札をそっくり入れ替えるのではなく、強いカードは残しておいて、勝負に必要のないカードを入れ替える。要は改革、すなわち再構築とはポーカーと同じだってことですね。

日本人は何か新しいことを始めるとき、相手の強いカードに目移りして、「だから日本は世界から遅れている」という発想になりがちです。が、相手の強さに学ぶのと同時に、自分の長所や性格を再確認する作業も、同じくらい重要なのです。そして、両者を再構築する。それこそが真の改革である、と。

それにしても、塩野さんの文章は、文中で「私はカエサルのように簡潔で明快な文章が好き」と仰っているだけあって、非常に読みやすく、スラスラと頭に入ってきますね。約350ページのダイジェスト版ローマ史なので、塩野さんも泣く泣く細かい部分を割愛しているようですが、それでも「ディテールにこそ、歴史の醍醐味はある」(P144)と宣言されるあたりには好感が持てました。

あと、本書の巻末についている、歴代ローマ指導者の採点表が面白いです。塩野さんのお眼鏡でみると、「あれ、アントニウスの点数、こんなに低いんだ」とか、彼女の視点でバッサバッサ切り捨てていく評論がなんとも痛快。これと同じ採点を日本の政治家にも当てはめてみたら面白そうです。


2009-10-14

『日本の難点』

先日書いた「小さな政府・大きな社会」の話、そういえば以前に読んだ宮台真司の『日本の難点』にも書いてあったなー、と思ったら、いろいろと詳しく書いてありました。




こうした状況を最初に概念化したのは、新自由主義を標榜するサッチャー政権とメイジャー政権下で大臣を歴任した保守党政治家ダグラス・ハード男爵の「能動的市民社会性」という概念です。具体的には家族や地域や宗教的結社に見られる相互扶助(が支える社会的包摂)を指しています。
「能動的市民社会性」や「市民的相互扶助」の概念は、労働党系政治学者デビッド・グリーンから保守党系政治学者バーナード・クリックを経て労働党系社会学者アンソニー・ギデンズに継承されます。新自由主義はもともと“「小さな政府」で行くぶん「大きな社会で包摂せよ」”という枠組だったのです。
家族や地域や宗教的結社の相互扶助―あるいはそこに見られるビクトリア朝的伝統―をベースに、“「大きな社会」で包摂せよ”というメッセージですから、市場原理主義とは似ても似つかないものです。ネオリベとして揶揄される枠組は、「小さな政府」を市場原理主義として誤解したものに過ぎません。
その意味で、元々の新自由主義と、いわゆるネオリベとは区別しなければなりません。ネオリベ=市場原理主義は、「小さな政府」&「小さな社会」の枠組です。新自由主義の「小さな政府」&「大きな社会」の枠組とは全く違います。(中略)
むろん不人気さゆえにこの看板は用いませんが、その意味ではアンソニー・ギデンズも新自由主義者だといえます。(P133-135)
アンソニー・ギデンズの唱えた「第3の道」は、ダグラス・ハードの唱えた「小さな政府・大きな社会」の枠組みを継承したもので、合ってたんですね。いやぁ、すっきりと謎が解けて良かった。


2009-10-13

『日本流ファシズムのススメ。』

田原総一郎を司会に、佐藤優と宮台真司の対談です。



本書のメインテーマとはすこし離れるかもしれませんが、印象に残った点を抜粋します。

■小さな政府・大きな社会

宮台:新自由主義といえば市場原理主義と勘違いされがちですが、もともとはまったく違うものです。サッチャー政権ならびにメージャー政権のときにいろんな大臣を歴任したダグラス・ハード男爵が言い出したことなんですね。
論点はふたつあって、ひとつは、財政が破綻したから財政を立て直すべきで、福祉国家主義はもう無理だということ。しかし、もうひとつあります。福祉国家化によって働かずにタダ飯を食らうような輩が、社会を空洞化させてしまうということです。
(中略)いずれにせよ、破たんした財政の立て直しの観点と、空洞化した社会の立て直しの観点から、小さな政府を主張したんですね。
ただし、市場原理主義とは違います。小さな政府にしちゃった部分をカバーするために、大きな社会をつくりましょうと提唱したのが、元祖新自由主義者のダグラス・ハードです。大きな社会とは、これすなわち、相互扶助によって包摂性がある社会ということです。(P21.22)
今、日本で「小さな政府」というと小泉政権時代の一連の改革だとか、それによって生じた格差の拡大、地方の疲弊など、マイナスなイメージしか湧いて聞いませんが、こういわれて初めてなるほど、と思いました。本来、小さな政府の大前提として、包摂性のある大きな社会が存在しなければならない。財政を立て直すために、政府の機能は小さくする。ただし、そのぶん大きな社会で国家全体のレベルを維持する。このあたり、社会を強化することが国家を強化することにつながる、という佐藤優の『国家論』の内容とも一致します。

宮台は包摂性のある社会の実例として、貴族が救貧院や学校・病院をつくって貧民を助けるイギリス・ビクトリア朝の伝統や、中国・ユダヤ社会における血縁ネットワークをあげています。たしかに、このような社会では、政府が対応しきれなかった問題を社会が解決してくれるわけです。いわば、社会的な勝者・強者が敗者・弱者を救ってくれる訳ですから、小さな政府でもやっていけるわけです。

しかし、地域性や人と人とのつながりが失われつつある日本は、いわば「小さな政府、小さな社会」となってしまっているわけで、政府が解決しきれない問題は、社会も対応できないと。佐藤優が、ときどき「ホリエモンもあれだけ儲かっておいて、貧しい人にいくらかの寄付なり援助なりをしていたら、逮捕されることはなかったんじゃないか」といったことを発言していたと思いますが、今の日本では、勝者・強者が敗者・弱者を放ったらかし、という包摂性のない社会になってしまっているからこそ、小さな政府が問題なのでしょう。

今回の自民党総裁選でも、やや暴走ぎみの感があった河野太郎が小さな政府論を唱えていましたが、小さな政府論者の人たちは、単に「財政がもたないから」とか、「自由競争が大切」とかいうよりも、まず大きな社会の創設を提唱してから、「じゃあ、小さな政府でいこう」って言ったほうが、聞こえがいいんじゃないでしょうか。

民主党との対比して、小さな政府路線は、対立軸としては明確でわかりやすいのですが、どうも日本国民の間には、小さな政府という言葉がもたらすイメージに対してアレルギー反応というか、もう止めてくれ、というのが一般的だと思います。「大きな社会・小さな政府」というフレーズなら、多少聞こえもいいと思うのですが、小泉路線を継承しようって考え方の皆さん、どうでしょう?


■ = 第3の道?


…と、ここまで書いてふと疑問が浮かんだのですが、「小さな政府・大きな政府」の枠組みとは、イギリスの社会学者・アンソニー・ギデンズが唱え、ブレア政権の政策として採用された「第3の道 The third way」の考え方とは違うのでしょうか?

第3の道、とは、「ゆりかごから墓場まで」の標語に象徴される、イギリス労働党型の高福祉社会(第1の道)でもなく、サッチャー保守党型の規制緩和・国有企業民営化路線(一般に想像されるところの新自由主義)でもなく、市場の効率を認めつつも、国家が機会の平等を保障する、いわば両者の複合型のような路線のことです。

第1の道が「大きな政府・大きな社会」、第2の道が「小さな政府・小さな社会」だとすれば、いわゆる「第3の道」路線は「小さな政府・大きな社会」の枠組みになるのではないでしょうか?現に、ブレアも左派・労働党の政治家でありながら市場の機能を多用しましたし(=小さな政府)、一方で、社会的コミュニティーの充実にも関心を寄せました(=大きな社会)。

・・・とすると、先ほど宮台が元祖新自由主義者として紹介したダグラス・ハードが気になります。彼は保守党でサッチャーに仕えた政治家で、「第3の道」路線を採用したブレア労働党とは敵対するはずなのですが…。結局、「第3の道」路線のブレア労働党も、保守党のダグラス・ハードも、「小さな政府・大きな社会」の枠組みでは一緒ってこと?



(追記:宮台真司の『日本の難点』によれば、上記の内容であってました。詳しくはこちら

2009-05-16

『獄中記』

佐藤優が、微罪容疑により逮捕され、獄中にいたときの手記をまとめた一冊。岩波現代文庫から文庫化されたので、読んでみました。




非常に内容の濃い本なので全部は紹介できませんが、ちょっと勉強になったところを引用します。学術書の読み方について。

私が学術書を精読するときは、同じ本を三回、それも少し時間をおいて読むことにしています。
第一回目 ノートやメモをとらず、ときどき鉛筆で軽くチェックをして読む
第二回目 抜粋を作る。そして、そのとき、内容を再構成した読書ノートを作る
第三回目 理解が不十分な箇所、あいまいな箇所についてチェックする
このような読み方をすると、10年経っても内容を忘れることがありません。(P169)

これはとても参考になります。自分はこれまで、学術書や論文を読むときに、齋藤孝流の「三色ボールペン読書術」を使って線を引きながら一度読み、大事だと思った部分だけ読書ノートに写経する、という勉強法を行っていました。しかし、それっきりで終わることも多く、読書語の消化不足も否めない状況に陥っていたことは否めません。三回にわけて、それも「時間をおいて読む」というところがポイントでしょうか。やっぱり、頭に定着させるには、手間暇を惜しんではいけませんね。
今、ブレア政権が掲げた政治路線を理解するために、アンソニー・ギデンズの『第3の道』という本を読んでいるので、早速佐藤優流の読書術を試してみたいと思います。


2009-04-12

『養老孟司の人間科学講義』

養老孟司氏による、人間を科学するお話。




手法は科学的。 内容は哲学的。
あぁ、この人の目(というか脳)には、 世界はこういう風にみえているんだなぁって思う本。 『バカの壁』シリーズと比べるとやや難しい気もしますが、 本人もあとがきで述べている通り、
「当たり前を難しく説明するのが学問か。 そう訊かれると、そう」(P267)

なのかもしれません。 このあとがきの一文を読んで、 あぁ、この本はまさにこの一文を体現した一冊だなと思いました。

そうなんです。この人の言っていることは、いつだって「当たり前」のこと(このあたり、故・池田晶子女史の哲学に通じちゃうあたりがどうも不思議)。 言いたいこと言ってるなぁ、って養老節もいつもの通り。 なんだかこの人の文章読むと、気分が爽快になります。

次は渡部昇一との対談を読んでみよう。