ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2008-02-08

欧州で考えたこと05 -信仰編-


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【写真】宗教について考える大きなヒントを与えてくれた、ジェノヴァのアルナールド神父。哲学問答を繰り返すこと、約3時間。とても疲れました…。死後は聖人 SAINT になるのが目標なんだとか。 …燃えろ!俺のコスモ !!

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欧州であった日本人が、合言葉の様に、口をそろえて言うのは「こっちに来ると、宗教について考えちゃうよね」ということだった。実際、自分もそうだった。

自分の名と共に、守護聖人の名を教えてくれたり教会で膝をつき、額で十字をきる人々。いきなりすれ違いざまに、「メッカの方向はどっちだ?」と聞いてくるムスリム(イスラム教徒)。そんな人との出会いが、日常。美術館を巡っていても、宗教画ばっかりなので、聖書の知識がないと、「へぇ」「すごい」で終了。あっちでは、宗教が当たり前の様に日常に溶け込んでいる。

自分は両親がクリスチャンなので、日曜日には教会に行くのが、小さい頃は普通だった。…やっぱ、「行かされてた」が正確かな。今では西洋史専攻のくせに、キリスト教の知識が絶望的にないことに困っている始末なのだけれども。

現地人からは、よく「宗教はなんだ?」と聞かれた。それこそ、異邦人と会ったときの、お決まりの挨拶のように。そのときはいつも、「宗教は神道」と答えることにしていた。生まれたと同時にクリスチャンとしての洗礼を受けてるそうなのだが、キリスト教の教えというのは、自分の肌にはどうしても合わない。

だいたい自分は「左の頬をぶたれたら右の頬を差し出す」ことができるほどの聖人君子でもなく、また、水をワインに変えたりだとか、水の上を歩けたといった類の話を、熱心に信じてもいない。かといって、今までの人生で、仏教にも特に関り無くこの年まで生きてきたし、「輪廻転生」という考え方にも違和感がある。

自分の先祖を、神に近いものとして尊敬しているし、万物に神(魂といったほうがいいのかな?)が宿るという考え方の神道が、自分の肌には一番合う。実際、神社にはよくお参りにもいく。

神道は日本古来の宗教にすぎず、いわゆる「世界宗教」ではないので、あっちでは知らない人も多い。たまに知ってる人もいるけれど、「宗教は神道」と答えると、「どんな宗教なの?」 「何を崇めているの?」と聞かれるのが普通だ。

「神道は、日本の伝統宗教」

「 『八百万 (やおよろず) の神』といって、それはもう沢山の神様がいる」

「感じることさえできれば、森羅万象に神は宿る」

「人は死んだら、神になれる」

「俺にとっての神は、自分の先祖だ」

こんな説明を繰り返すと、最後には「お前が死んだら神様かよ。お前が。ははは」といって、ジョークに巻かれて会話が終わるのが、よくあるパターン。実際、教会の神父さんとじっくり話したことも何度かあったが、一神教が基本のユダヤ・キリスト・イスラム文化圏では、多神教の概念は理解しにくいらしい。というか、多神教、つまり「万物に神が宿る」という考え方を突き詰めていくと、「全てが神なら、結局は神とはなんなのだ?」となって、無神論に行き着いてしまう。これは、汎神論という考え方。実際、汎神論を唱えた神学者は、中世キリスト教世界では異端扱い、火あぶりの刑だった。

神道には、キリスト教を否定しかねない内在的論理が潜んでいる。(まぁ、神道はキリスト教さえも飲み込んでしまう宗教ではあるのだけど)

欧州人にとって神とは「Jesus」という絶対的なものであって、それ以外ではない。八百万の神だの、死んだら神になれるだの、恐れ多いことを平気で口に出してた東洋人をみて、彼らはさぞ不思議だったに違いない。

さて、やって本題に戻って 、「こっちにくると、宗教について考えるよね」という問いに戻ってみる。「宗教」については普段考えることの無い日本人だが、立派な「信念」を持つ人は、なかなか多い。とりわけ向こうでは、自分の生き方を貫いている立派な方々に、沢山出会えた。そんな人たちと話をしていて、ふと思う。

「信念」はある意味、「自分教」と言い換えることが、できないだろうか。

結局、「信念」は、「自分を支える『宗教』」と、いえなくもない。

「自分教」では、教祖様は自分自身や尊敬する先達であり、過去の生き様や実績が、聖書である。自分にとっても、血を引く御先祖様たちの生き様は、キリスト教徒にとっての、ペテロやパウロら、信徒達の活動の記録に相当するものだとも、言えなくもない。

西洋社会では、各家庭に一冊は聖書があるのが当たり前だし、自分の回想録を書くときに、やたら聖書からの引用をふんだんに使ったものが多い。日本にはそんな文化は無いけれども、本屋さんに行ってビジネス書や自己啓発本のコーナーを見ると、社長さんが書いた自伝のような類の本が多いのには、そんな事情があるんじゃないかと、考えた。

彼らは自分の生きた証として、自分の「信念」を、他の人に伝道したいのではないか。「信仰」が無い代わりに「信念」を求める。これが日本人の正体なんじゃないかと、考えてみた。

…どうすかね?



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