ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。
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2012-06-09

「息切れクールジャパン」Newsweek 6・13

Newsweekで気になる特集を組んでいたので、思わず買ってしまいました。


カバーストーリーのタイトルは「息切れクールジャパン」
以下3本の記事が載ってます。


  • クール・ジャパンのお寒い現実(ダン・グルネバウム)
  • 日本のドラマのパクリ文化を憂う(山田敏弘)
  • カワイイだけは生き残れない(シャロン・ラーナー)

■クールジャパンはなぜ失敗したのか?

まずは、日本の「クールジャパン戦略」への強烈なダメ出しから。
 国際的な脚光を浴びて有頂天になった政府と学会、メディア、関連企業は、クール・ジャパンを世界に売り込むキャンペーンに乗り出した。日本経済が停滞するなか、新しい市場を獲得し、文化大国の座を築くチャンスだと期待された。(略)
 それで、文化超大国を目指す日本の夢は実を結んだのか? ひとことで言えば、クール・ジャパンは精彩を欠いている。日本企業は、マンガやアニメを安定した収入源にできていない。経済産業省の12年度版の報告書によると、日本のクール・ジャパン関連のコンテンツのうち輸入されている割合は5%止まり。アメリカのクリエーティブ産業は、コンテンツの17.8%を輸出している。(「クール・ジャパンのお寒い現実」p51)
 日本のコンテンツ産業を悩ませている問題は、製造業が抱えている問題と似ている。「ガラパゴス化」は、エレクトロニクス産業だけの現象ではない。(同、p52)
 マーケティング戦略として見ても、クール・ジャパンは問題だ。「創造性はマーケティングによっては生まれない」と、明治大学の「クールジャパン・プログラム」の責任者を務める北脇学講師は言う。「経産省は大企業にキャンペーンを依頼した。これで、クール・ジャパンは企業の金儲けの手段になってしまった」 そもそも外国人がそう呼ぶならまだしも、日本人自身が自国を「クール(かっこいい)」と呼ぶのはかなり情けない。(同、p53) 
Tony Blair
卒論のテーマに選んだ、個人的
には思い入れのある英国首相
クール・ジャパンと聞いて思い出すのが、イギリスのブレア政権が進めた「クール・ブリタニア政策」です。誰がスローガンの言いだしっぺなのかは知りませんが、思いっきりイギリスのパクりですね。

トニー・ブレアは自身がロック好きという性格もあり、当時流行っていたBritpopや英国発のアートを世界ブランドとして発信しようと試みました。Cool Britannia とは、Rule, Britannia(『英国よ、世界を治めよ』)という愛国歌のタイトルとかけた標語です。

しかし、その結果は成功とはいい難いものでした。一時的にイギリス国民、そして世界の注目を浴びたのも事実ですが、ブレア政権が発足した翌年のエコノミスト紙には「すでに多くの人がうんざりし始めた」と酷評され、「クール・ブリタニア」は完全に死語の状態。

たぶん、世界からみたら「クール・ジャパン」もこれに近いのかもしれない。5%しか輸入されていない文化の、どこがクールなの? と。

では、なんでこんなことになってしまうのか。以下の指摘が示唆に富んでます。
「特定の何かがクールだというなら分かる」と、米誌ビルボードの元アジア支局長スティーブ・マクルーアは言う。「だが、ある文化現象に国名を付けて売り込むのは危険だ。ポップカルチャーには流行があるから、クールなものがクールでなくなる」(同、p53)
スウェーデン人イサック。
この枕を獲得するために
クレーンゲームで2000円も投入(笑)
そう、文化には流行り廃りがあるのです。一時的に世界が「日本文化っていい!」って騒いでも、それが永久のものだと思って浮かれてはいけない。もちろん、コアな日本文化のファンはいます。僕にも下手したら日本人のオタクよりもアニメに詳しいスウェーデン人の友達がいます。

しかし、ブームはあくまで一時的なもの。その一時的なブームと国家のイメージを同化させてしまうと、ブームが収束して世界が醒めてしまったときに、国家イメージも一緒に落ちてしまうぞ、ということです。


■真のソフトパワーとは何か?

国家にはハードパワーとソフトパワーがあります。前者が軍事力や経済力、つまり目に見えたり、数字で捕らえることのできる指標なのに対して、後者の定義は難しい。一般的には文化の力と捕らえることが多いので、「クールなジャパニーズカルチャーを世界に広めることは、日本のソフトパワーの拡充につながる」と勘違いしてしまいがちです。しかし、
(略)…ナイの提唱したソフトパワー(空母や市場の力を借りずに世界に与える影響力)とは、他国に好かれるためのものではない。リスペクトされるかどうかの問題だ。世界を楽しませるエンターテイナーの力ではなく、世界のロールモデル(模範)になり得る力である。
 その種のソフトパワーとは、例えば東日本大震災の被災者の冷静さを失わない姿であり、核心と流動性を奨励するビジネス文化であり、他国から移民を受け入れる社会環境だ。(「カワイイだけじゃ生き残れない」p59)
そうなんです。真のソフトパワーとは、「リスペクトされるか」なんです。

なぜバギオで今、あれだけ韓国人が嫌われているのか? 同じく60年前に日本人が失敗したのは何故か? どちらも、現地の人からリスペクトされなかったからです。

僕は日本人が日本人らしく普通に生きていれば、世界からのリスペクトは勝手に集まると思っています。それは例えば、他人を思いやる文化だったり、異文化や宗教に対する包摂的な姿勢だったり、時間に正確な民族性です。

実際に外国人に日本人の印象を聞くと、"sophisticated 洗練された"、"disciplined よくしつけられた" "polite 礼儀正しい"って言葉をよく聞きます。

下手な文化戦略にまぎらわされることはない。日本人は日本人らしく、昔からある日本文化を大切にしていれば、ソフトパワーはあとから勝手についてくる。僕はそう思います。









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2011-10-13

『義経』

京都に滞在して、自分の日本史の知識不足を改めて実感してます。僕の日本史の知識は、せいぜいセンター試験レベルの通史と、基本は司馬遼太郎の小説です。司馬遼太郎のおかげで戦国・幕末あたりは人並みに知っているつもりですが、それよりももっと前の時代も読んでみたい、と思って手を出したのが、この『義経』です。

おそらく、司馬遼太郎唯一の鎌倉時代を描いた作品。時代的には、『空海の風景』に次いで2番目に古いんじゃないだろうか? 



この源平合戦の時代小説を読むのは初めてなので、全てにおいて「なるほどー」って思いながら読みすすめられました。印象深かったのは、後白河法皇の存在です。司馬作品に皇族がこんなにも生き生きとかかれるのはかなり珍しいと思います。他にはいないんじゃないかな? 平家を追い落とすために源氏をたきつけ、頼朝の勢力が巨大化すると、それに対抗するべく義経を盛り立て、常に勢力の均衡をはかる陰謀家として描かれています。この小説における名脇役ですね。彼を通して、「常に強者と結びつく」朝廷の性格を描いているのも、この作品の特徴だと思います。


この作品において、義経は一貫して「軍事的才能には恵まれたが、あきれるほどに『政治』というものを理解できなかった」人間として描かれています。作品中には「痴呆」とか「馬鹿」とかいった単語が、義経の形容詞としてこれでもか、ってくらい出てきます。


読んでいて不思議に思ったのは、そもそもなぜ司馬遼太郎は義経を主人公にすえたのだろう? ということでした。司馬遼太郎には、現実的な思考をする人間を好み、理念に走りがちな人物を嫌う傾向があり、それは西郷隆盛よりも大久保利通を(『翔ぶが如く』)、近藤勇よりも土方歳三を(『燃えよ剣』)主人公にすえてきたあたりにも現れています。この時代にあてはめれば、義経よりも頼朝を好みそうな気もしますが。

若干の手がかりになりそうなのは、次の一文。

日本人はこれまでに人気者というものをもったことがなかった。義経においてはじめて持った。
これまでこの国で名を得た者は、朝官としてしかるべき官位、威権があらかじめあり、その地位によって功業をなし、名をあげた。(略)義経は無名のなかから出、一躍人気を得た。そういう人間は古今にあったためしがない…(pp371・372)
上記の反面、明るく英雄気質の人物も好む、司馬遼太郎。日本史上初の「英雄」である義経に惹かれたのは、このあたりかもしれない…。

作品の舞台としての京都にも多く触れられています。鞍馬寺・堀川館跡なども、これからの見学リストに追加ですね。

それにしても、頼朝との対立が決定的になり、都落ちしたあとの描写がなんともあっけなさ過ぎる…。主人公が黄金時代を過ぎるとあまり綿密に描かなくなる、このあたりもなんとも司馬作品っぽいです。


2011-09-09

『国防論』

小林よしのりの『国防論』です。小林よしのりを読むのは相当久しぶりな気がします。新作読むのは『沖縄論』とか以来じゃないかな。SAPIOはたまに立ち読みしてたんですが、単行本でじっくり読んだのは、読書メーターによれば実に5年ぶりです。



主な内容・主張としては、
  • 3・11大震災後、自衛隊がいかに行動したかのドキュメンタリー
  • 自衛隊が災害を含めた有事に対応できるのは「軍隊」だからだ
  • 自衛隊の任務は日本の「国体」を守ることだ
  • 中国の海からの侵略に警戒せよ
  • 少年工科学校・江田島幹部候補生学校のルポ
  • 段階的な「脱原発」ではなく、即時の脱原発を
といったところ。震災後の自衛隊の救出活動に関しては、思わず目頭が熱くなることもしばしば。「即応予備自衛官」なる人たちがいて、今回の救出作戦にも参加していたことははじめて知りました。

対中国防衛論の話題は、フィリピン滞在の直後だったので、とても生々しく感じました。当時フィリピンではスプラトリー諸島の問題で中国とリアルタイムでもめていました。先生が授業中に愚痴りだすレベルだったので、現地では一番大きな話題であったような印象があります。

この戦場ではフィリピンの劣勢がほぼ確定しているわけですが、じゃあ日本は大丈夫なの? って問いに、若干の安心感を与えてくれるのが少年工科学校と、江田島幹部候補生学校の取材編。ともに海上自衛隊の訓練学校ですが、日本と中国では、兵の「質」と「士気」がぜんぜん違うんだ、って指摘に、少しほっとしました。

もうひとつなるほど、って思った指摘は、中国共産党政府がチベット・ウイグルなど非漢族を弾圧するのは、逆に彼らから支配を受けてしまう可能性の裏返しである、ということ。確かに中国の歴代王朝には、それこそ北魏(鮮卑族)に始まって、元(モンゴル人)、清(満州族)など、漢族が支配される側だった歴史も多々あります。どうも弾圧する共産党・弾圧される非漢民族ってイメージが定着していますが、中国大陸内における、民族間のヘゲモニー争いって文脈でこれを考えたら面白いなって気付かされました。

本書を読んで、航空自衛隊に入隊した友人のことを思い出しました。陸自・海自に関してはかなり言及されていますが、「空からの防衛」についてもいつか論じてほしいな、と思います。







2011-08-19

『冒険投資家ジム・ロジャーズ 世界バイク紀行』

友人から、ジム・ロジャーズなる人物について教えてもらいました。僕はビジネスにはあまり興味がないのですが、投資の世界では有名な人物とのこと。なんか聞いたことある名前だなー、って気はしてたんですが、ジョージ・ソロスとクォンタム・ファンドを立ち上げた人物、と聞いて「あー」て思い出しました。

なぜ興味をもったかというと、友人によれば「彼は投資家というかむしろ旅人なんだ」ということ。「彼は世界的に有名な投資家だけど、自分で世界を旅して、そこで自分が見たものを、投資の参考にしている。だから、他人とは違った視点で投資ができるんだ」と。

■ビジネス本×旅行本

自分はどんなに間違っても投資に手をだすことはないと思いますが、「旅」というテーマには反応してしまいました。それでもって、さっそく買ってみたのがこの本。



これは面白い。世の中には「旅行記」があふれていますが、『冒険投資家』は僕がはじめて読むタイプの旅行記です。というのも、この本はやはり、投資家としての側面をもつロジャーズが書いているだけに、世界各地の現状分析が非常にクリアに記されているのです。彼の旅は冷戦構造崩壊前のものですが、「20年以上も前に、いまの国際情勢を予言してやがるー!」と驚くことも多い。例えば、

地球規模の戦いはまだ終わっていない。次の戦いは共産主義と資本主義ではないかもしれない。将来の対決はイスラム教対キリスト教である可能性は充分にある。あらゆるイスラム文化が復活しつつある。それは彼らがイスラム風になりたいからというわけではなく、イスラム教徒を増やすための伝達手段が必要だからだ。人間は裕福だとあまり争わない。イスラムは彼らにとって自らの繁栄とアイデンティティのための唯一のツールなのである。それこそがイスラムの人たちが欲しているものというわけだ。(p67)

まさに、ポスト冷戦、パクス・アメリカーナ後の世界そのものです。話はちょっとそれますが、このキリスト教VSイスラム教の宗教戦争の構図は、フィリピンにも当てはまります。イスラム原理主義のテロリストグループ「アブ・サヤフAb Sayaf」によるミンダナオ島 分離独立闘争がそれで、フィリピン人の中には、「我々はムスリムによって侵略されている」とはっきり断言する人もいました。

ともあれ。ロジャーズの本からは、「世界を理解してやろう」という意思が、強く感じられます。もちろん(僕はあまり興味がないので読み飛ばしましたが)、投資に関するテクニックに関する記述も多数。そういう意味では、旅行本というよりはビジネス本なのかもしれません(そもそも、出版レーベルは日経ビジネス人文庫)。どちらにせよ、非常に知的好奇心を刺激してくれる本です。ビジネス・国際情勢のレポートとしてだけではなく、もちろん、旅行記としても面白い。

旅とは目的地へ到達するための手段だけれど、バイクで行く旅はそれ自体が目的なのだ。行ったことのない場所を駆け、新しい人に邂逅し、冒険し、経験する。これほど素敵なことはない。(p15) 
日課の10キロのジョギングは欠かさず、私が二人分の洗濯をしたが、これは心を落ち着かせるのに役立った。この時点では私が旅を支配しているのではなく、旅が私を支配していた。(p47)

このあたりは、旅人なら絶対に共感しうる文章だと思います。

■旅にはテーマが必要だ

この本を読んで確信しましたけれども、やっぱり旅にはテーマが必要ですね。ロジャーズにとって、それは「投資」であって、その「投資」という窓を通じて、世界を見る。それが彼の旅のスタイルです。バックパッカーにはいろんな人がいます。いろんな人がいてそれぞれ面白いのですけれども、僕が話をしていて面白いな、と思うのは、やっぱり旅のテーマというか、目的、あるいは得意分野を持っている人です。

例えば、欧州放浪旅行で出会ったコックさん。フランス各地を食べ歩きしながら「料理」の勉強をしていました。「建築」をテーマに、各地の有名な建造物を見ながら放浪している学生もいた。バギオの英語学校でも、フィリピンの農業を研究しにきている子がいて、話を聞いていてとても面白かった。テーマをもって旅している人は、それを入り口にその国の文化・風土を理解できるので、話を聞いていて、とても面白い。ちなみに、僕にとってのテーマはその国の「歴史」でしょうか。

もちろん、人間関係だとかゴシップだとか、そういうちょっと「下世話な」話をするのも楽しいのですが、それだけでは、日本の居酒屋で話していても、何の変わりもない。せっかく海外にきているのだから、その国のことを話題にしなければ、僕はもったいないと思う。

そういう意味で、僕は、ロジャーズの旅の仕方は、全ての旅行者、あるいは全ての若者にとって、ロールモデルになると思います。この本を読んでいて、彼は知的好奇心の強い人間なんだな、って思う箇所がいくつかありました。たとえば

こういう旅ではたくさんの食料を持ち運ぶのは不可能だったし、レストランのメニューは当然トルコ語だった。こんな場合いつもするように、私たちは厨房に入っていいかと、英単語の羅列と身振り手振りを組み合わせて尋ねた。彼らは決まってイエスと言った。(p49)

とか。要は、疑問に思ったら、聞いてみる。行きたいと思った場所は、訪ねてみる。そんなロジャーズの旅のスタイル、僕は好きだなってことです。

2011-06-15

『20歳のころに知っておきたかったこと』

旅にとって読書は欠かせない要素です。英語を勉強しにフィリピンに来ている僕が言うのもアレですが、海外にくると、なぜか無性に日本語の本が読みたくなってしまいます。今回は運良く、前から読みたいと思っていた本をルームメイトが持っていたので、借りて読んでみました。英語タイトルは、What I Wish I knew When I Was 20.関係代名詞と仮定法の良い勉強になる、絶好のタイトルです(笑)それにしても、実に半年ぶりの書評だ…。



のっけからかなり面白い、というか、モチベーションを奮いたたせてくれる本であることには気づきましたが、次の一文を見つけたときに、思わず身震いがしました。
そのうち、人間は二つのタイプに分かれることがわかってきました。自分のやりたいことを誰かに許可されるのを待っている人たちと、自分自身で許可する人たちです。自分自身の内面を見つめて、やりたいことを見つける人がいる一方で、外からの力で押されるのをじっと待っている人もいます。私の経験から言えば、誰かがチャンスをくれるのを待つのではなく、自分でつかみに行った方が良い面がたくさんあります。(p72)
僕は現在24歳。普通なら、入社2・3年目の働き盛りの会社員です。正直、世界放浪旅行に出発するにあたって、迷いが無かったわけではありません。日本に帰ったとき、無事社会に復帰できるだろうか。友達はまじめに働いている中で、自分だけこんな好き勝手をやっていていいのか。そもそも、この選択は果たして本当に正解なのだろうか。

…正直、いろんなことが、頭の中をよぎりました。

でも、「正解」なんてものはどこにも無いのです。自分に許可を与えるか、他人の許可を待つか、二つの選択肢があるだけです。自分は少なくとも、自分で自分に許可を与えて、いまここにいる。自分のやりたいことをやっている。それでいいじゃないか。それが正しい選択だったかどうかなんてのは、最後にふりかえれば、それで良い。

おそらく多くの人にとって、自分のやりたいことをする上で壁になるのが「他人の意見」でしょう。人は、特に日本人は、そう簡単に人の他人の意見を無視はできない。

有名な心理学者のB・F・スキナーは、かつてこう言いました。人間の行動はすべて、個人の欲求か、種の欲求か、社会全体のルールに適応したものになる、と。ただし、これらの3つのルールは、隅々に張りめぐらされています。ルールを決めるのは、政府や宗教団体、雇用主、学校、隣人、家族など。こうした社会組織がそれぞれはっきりしたルールを作るからこそ、個人の欲求を満たしたり、種の欲求に駆り立てられたりして、ルールを破りたくなることがあるのです。(p46)

著者のティナ・シーリグは、B・F・スキナーの言葉を借りて「他人の意見」のことを「社会全体のルール」と表現しています。この「社会全体のルール」は、特に日本社会においては、破るのはそう簡単ではありません。それを破った果てに待っているのは、いわゆる「村八分」だったり、「いじめ」だったりするわけです。そういうものが待ち構えているからこそ、他人の意見を無視して、自分が本当にやりたいことをやるには、それなりの精神力が必要とされる。でも、そんなタフな精神で「いいから早いとこ、自分に許可を与えてしまいなさい!」と、ティナ・シーリグは声を大にして叫んでいるわけです。
最後の「第10章 実験的な作品」では、彼女は出だしからこう言い切っています。

種明かしをすると、これまでの章のタイトルはすべて、「あなた自身に許可を与える」としてもよかったのです。わたしが伝えたかったのは、常識を疑う許可、世の中を新鮮な目で見る許可、実験する許可、失敗する許可、自分自身で進路を描く許可、そして、自分自身の限界を試す許可を、あなた自身に与えてください、ということなのですから。じつはこれこそ、わたしが20歳のとき、あるいは30、40のときに知っておきたかったことであり、50歳のいまも、たえず思い出さなくてはいけないことなのです。(p206)

20代のうちにこういう言葉に出会えてよかった。長い旅の出だしから、こういう言葉と出会えてよかった。本当に、そう思います。この学校には、昔の僕みたいに、自分のやりたいことや夢のために休学してこっちに来ている学生がたくさんいます。彼らは非常にモチベーションが高く、僕にとってもとても刺激になるのですが、もしまだこの本を読んだことがないのなら、是非とも早いうちに読んでおいた方が良い。きっと何か得られるものがあるはずです。読みたくなったら、Garden Villaの503にいつでもおいで。俺の本じゃないけど、たぶんArataは快く貸してくれるはず(笑)

こういうことを考えていると、どうしても思い出してしまうのが、アップルの創業者スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った、あの伝説のスピーチです。
D
このスピーチに初めて出会ったのは、3年前のことでした。当時も、そして今もなおですが、僕はこの力強い言葉をきけばいつも、目頭が熱くなるのを抑えきれません。

自分の一番好きな部分を自分なりに訳して、今日の記事を締めくくりたいと思います。いわゆる「超訳」なので、かなり自分の都合のいいように解釈した上で訳しています。語順とか単語への忠実さとか、もうめちゃんこに無視してます。あまりにも有名なスピーチなので、探せばもっと良い訳はたくさんあるはずですから、英文法にそった正確な訳文がほしい方は、そちらをあたってみてください。

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ― which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.


時間は限られている。だから、君は君の人生をこそ、きちんと歩むべきだ。ドグマにとらわれてはいけない。他人の意見に従って生きていても、そんなものに意味なんて無い。他のやつらに、君の内なる声をかき消されるな。一番大切なことは、心と本能に従う勇気を持つことだ。それらはどういうわけか、君が本当にしたいことを、とっくの昔からわかっているのだから。それ以外のことなんて、どうだっていいんだ。
スピーチの全文は、こちらからどうぞ → http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

2010-11-14

『「昭和」という国家』

おそらく日本の歴史に関わる以上は、永久的に逃れることはできないであろう問、「日本はなぜあの戦争に負けたのか」について、司馬遼太郎が真正面から取り組んだ本です。



この問に関しては、色々な方々がいたるところで発言されてます。「あの時代の日本はおかしかった」「一部の頭の悪い人たちが起こした戦争だ」などといった、多少「乱暴」な意見もある一方、最近は少し冷静に「そもそもなぜ負けるとわかっていた戦争に突入せざるを得なかったのか」「有能な人材がいたにもかかわらず、なぜ彼らに活躍の場が与えられなかったのか」といったことが論じられるようになり、時代とともに、「あの戦争」が「体験」としてでなく、「歴史」として、きちんと分析対象として冷静に語られるようになってきた印象があります。

そういう意味では、自身も従軍経験のある司馬遼太郎にとって、昭和時代は「冷静」に見ることのできる対象ではないのかもしれません。実際、司馬は本文中で
いったい、こういうばかなことをやる国とは何なのだろうかということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということの最初の疑問となりました。(p4)

と、昭和時代への違和感を隠しません。ちなみに「こういうばかなこと」とは、ノモンハン事件を指しています。「日本は明治まではよかったが、昭和からまるで駄目になった」という、いわゆる司馬史観も批判されがちな昨今ですが、本書では司馬さんは司馬さんなりに、「では、昭和の日本が駄目になってしまったのはなぜか」について精一杯考察していまして、中には傾聴に値する意見もあります。僕が一つ興味深く感じたのは、「日本は近代化の過程で江戸時代を捨ててしまった」という指摘です。主に
  • 第9章 買い続けた西洋近代
  • 第10章 青写真に落ちた影
  • 第11章 江戸日本の多様さ
あたりで詳しく述べられている話なのですが、そこで司馬さんが一貫して述べているのは、江戸時代がいかにリアリズムの時代であったか、かつ、多様性にあふれた時代であったかについてです。一方で、昭和時代はその江戸期の遺産引き継ぎに失敗し、空疎な精神主義に陥ってしまった、とも。
昭和元年から二十年の話をずっとしていますが、話していると、だんだん覇気がなくなってきますね。私もその時代の末端に属していながら、青春が末端に属していながらですね、そして同じ民族でありながら他民族の話をしているようです。そして、いまだに思うことはひとつです。
あれは日本だったのだろうか。
むしろ、本当の日本は江戸時代の文明、江戸文明にあったのではないか。江戸中期以後のリアリズムを中心とする、技術をものを見続けて思想を作り上げた代表者たちとわれわれは結びつく。先に話しましたように、職人が好きで、技術が好きな民族なんだと。(pp124・125)
とにかく明治政府というものは江戸期を否定し、そして明治以後の知識人は、軍人を含めて、江戸的な合理主義を持たなかった。それはやはり、何か昭和の大陥没とつながるのではないでしょうか。(中略)
われわれ技術好き、職人好きの民族は、昭和元年から二十年までの間、抑圧されていた。戦後にその留め金がとれ、江戸期に直結したのではないかと思うぐらいです。こういう言い方は非常に正確だと思うのです。(pp133・134)

ちょと極端な言い方をすると、司馬さんは「江戸時代は良い日本で、昭和時代は悪い日本」だと言いきっています。しかも、そういう言い方を「非常に正確だと思う」とまで。こういう、昭和時代を問答無用で切り捨てる司馬さんの態度は、最近よく批判されがちですね。ただ、江戸時代は技術と多様性に支えられた社会で、とそれはそれでひとつの完成した世界だった、というのは納得させられました。近代化の過程で、西洋文明を取り入れた日本は、江戸時代を完全に忘れてしまった。それは実はとても、もったいないことだったのではないか、と司馬さんは言っている様に思います。

敷衍すれば、取り入れた西洋文明と、昔ながらの江戸文明、この二つを有効にミックスした近代化こそが、日本がとるべき国家像だったのかもしれません。

ただ、明治政府が江戸時代の負の部分 = 硬直し、機能不全に陥った徳川政権を否定して成立した以上、江戸時代を忘れ、西洋の列強に対抗するために西洋文明を吸収せざるを得なかったのは、歴史の必然です。そのような流れの中で、「江戸時代を忘れない明治維新」「旧時代を捨てない新政権」というのは、あの時代にはたしてありえたのだろうか?という疑問が生じます。世の中に変化を起こすには、「過去の否定」が必要です。「変革」とは「過去を否定」することで、新しい価値観を根付かせる行為です。江戸時代を否定し、西洋からの技術を貪欲に取り入れたからこそ、明治維新は成功したのであって、過去(=江戸時代)を中途半端に引きずったままでの明治維新なんて、あり得るのだろうか。そんな「架空の明治時代」がありえたとして、その架空の明治では、江戸時代の文化が邪魔をして、あまり西洋の技術が根付かなかったのではないか? それで果たして、西洋列強と張り合うことができたのだろうか? と、どうしても考えてしまいます。

ただ、司馬さんが言うように「技術好き、職人好きの民族」であることが日本人の本来の姿である、というのには共感できます。日本人は今でも技術力で世界と戦っていますし、マクロな戦略よりもミクロの戦術に強いのが日本人です。ただ、このまま技術に強いだけではこの国際化の時代に日本はどんどんガラパゴス化していってしまう、というのは最近よく言われることでありまして、「技術」をひたすら追求するだけでなく、得意な「技術」をいかに国際スタンダードにするか、ということも、これからの日本人は考えていかなくてはなりません。
(参考→『武器なき“環境”戦争』)

さて、「日本はあの戦争になぜ負けたのか」という問に対する、司馬遼太郎のひとつの回答は「江戸時代を捨ててしまったからだ」でした。この問題に対する答えは、おそらく一つではないでしょう。というかそもそも、「正解」があるのかどうかも分かりません。ただ、この問題を考える上で、あるいは日本人とは何者か、という問いを考える上で、本書が一つのヒントを与えてくれることは間違いありません。興味のある方は、ぜひご一読ください。できれば、『「明治」という国家』も併せて。

2010-10-29

『シリコンバレー精神』

『ウェブ進化論』『ウェブ時代をゆく』でおなじみ、梅田望夫氏の著作。一応、奥付は2006年8月の初版ですが、2001年発行の『シリコンバレーは私をどう変えたか』の改題です。



■梅田本の謎がとけた!
書かれている内容は、96年秋から01年夏にかけてのシリコンバレー情勢についてなので、2010年を生きる僕らが「シリコンバレーのフレッシュな情報」を求めてこの本を読んでも、たいした収穫はないかもしれません。それでもこの本について書評を書こうと思ったのは、ずっと抱いていた、「なぜ梅田さんの一連の著作からは、他のWEB論からは感じることのできない、強い希望を感じることができるのか」という疑問に答えうる、明確な一文を発見したからです。

以前、斎藤孝氏との対談『私塾のすすめ』でも触れましたが、梅田さんの一連の著作からは、くさい言葉でいえば、「未来への無限の可能性」を感じられるというか、読んでいてとても明るい気持ちになれるのです。梅田さんの本には、「世界を良い方向に変える」ことに対してクレイジーと言っても差し支えないくらいに本気で取り組んでいる人々が数多く登場します。そして、人が何かの能力を鍛えようと思ったら、WEBの力を使って距離やお金などの制約を受けずに効率的・効果的な学習がいくらでもできるんだと、いう事例がいくつも紹介されています。これらを読んで、自分は本当にいい時代に生きているんだなぁ、といつも明るい気持ちにさせられますし、読んでいて自分の中に興奮とやる気が沸いてくるのをいつも感じます。少なくとも、何か好きなことに没頭する、ということをこれほど力強く肯定してくれる本に、僕はこれまで出会ったことがありませんでした。

そんな梅田本の「明るさ」や「未来を力強く肯定的に捉えるメンタリティ」はどこから来ているのだろう、というのは、初めて梅田さんの本を読んでからずっと抱いていた疑問でした。

本書の巻末、「文庫のための長いあとがき」に次の文を見つけたとき、その謎がとけたような気がしました。
近未来の方向について、その時点その時点で自分なりの判断を下し(未来から振り返れば間違いだらけであろうとも)、苦しくても断定する表現を心がけてきた。むろん、両論併記の誘惑は常にあった。日本では、オプティミズムに基づき未知の可能性を描くより、ネガティブな問題提起や批判を書くほうが、また判断を下すよりも判断を保留し両論併記をする方が、無難で受容されやすいからだ。
あえて判断と断定にこだわったのは、考えたことを行動に結び付けるには、どうしてもそれが必要だったからだ。そしてもう一つ、断定的表現でモノを書き、それが多くの人の目に触れるということは、自らに強い緊張を課すことになる。迷った挙句に強い表現をした文章は記憶に残る。その記憶が自らに反省を促す。「あそこまで強く断定するのではなかったなぁ」と悩みながら、断定対象の推移を同時代的に眺めつつ考えるのは厳しく辛いことだ。でもそれが人を成長させる。(pp299・300)
ただ楽天的な観測に基づいて「WEBの未来は明るい」と主張されているのではない。情報を吟味し、自分で「断定」することのリスクを負う。その上で人に希望を与えうる文章を書く。それが梅田節だったんだ、とうことがこの一節から伝わってきました。梅田節の「力強さ」は、この梅田さんの「物書きとしての覚悟」に支えられていたんですね。

氏は「本書は、『シリコンバレー精神』でモノを書くということはどういうことなのかを、常に意識しながら書いた」とも述べています(p298・299)。そして「シリコンバレー精神」を「限られた情報と限られた能力で、限られた時間内につたないながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する」ことだと定義しています(p273)。いわば、シリコンバレーについてシリコンバレー精神に基づいて書いているのが梅田さんの本だったわけです。明るい未来を描いてはいるのだけど、同時に迫力もあったのは、この相乗効果のせいだったわけです。

■シリコンバレー精神は普遍的な価値観

なんだか『シリコンバレー精神』の書評というより、梅田さんのメンタリティ分析みたいな内容になっちゃいましたが(笑)、これってシリコンバレーに限らず、モノを書く、主張する、あるいは何かを人に伝えるうえで、欠かせないものなんじゃないかって気がしました。その時点でできる限りの努力しつつ、リスクを負って断定表現をする。そうした上で口から出る言葉からは、常に他人を動かしうるエネルギーや迫力が感じられます。「シリコンバレー精神」に基づいて動く人間は、洋の東西を問わず、人を動かすエネルギーをもっているのではないか。

本書に限らず、梅田さんの本はシリコンバレーやWEBの世界で起きていることが著述の中心にありますが、その根底には、氏の、あるいはシリコンバレーに生きる人々の人生観めいたものが感じられます。単なる技術論ではなく、人生論。それも梅田本の魅力なのでしょう。そしてそれに読者が共感し、一定の支持を得ているのは、梅田さんの人生観や本書の定義する「シリコンバレー精神」がシリコンバレーだけに特有のものではなく、ある種の普遍性を持っているからなのではないでしょうか。
「限られた情報と限られた能力で、限られた時間内につたないながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する」というのは、人が他人に対して真摯に接するうえでのマナーだともいえます。そして、そうやって行動する人は魅力的ですし、そうやって行動することは人を成長させます。僕には、「シリコンバレー精神」に基づいて行動する人間は、洋の東西を問わず、どこでも一定の評価を得ることができるように感じます。つまり、「シリコンバレー精神」は人類に共通する普遍的な価値観なのではないか…。

自分も、つたないながらもこうやってブログで世に情報・意見を発信しているわけですから、これからはもっと真摯な態度で文章を書かないとだめだなぁ、と改めて思いました。リスクを負っても、これからは「らしい」とか「だそうだ」などといった表現をなるべく使わないように心がけます。それが、自分の成長につながるのですから。

2010-10-20

『アナーキー・イン・ザ・JP』


アルバイト先の書店で上司に薦められた一冊。もともとこういう現代小説はあまり読まない人間なので、薦められなかったら確実に読むことはなかったであろう本なんですが、読了後の今はこの本を紹介してくださった上司に感謝です。痛快な読みごこちと、謎の感動があります。



昭和時代の有名な無政府主義者、大杉栄の魂が、現代を生きるパンクな高校生に乗りうつってしまうってしまうという、一見「?」な話。これがなぜだか、面白い。僕は大杉栄については高校の日本史で習った程度の知識しかありませんでしたが、大杉がどういう人間だったのかもよく伝わってきますし(実際に作中の様な口調で話していたのかは疑問ですが)、昭和時代の無政府主義者が現代の様々な事象をみて想ったことや、無政府主義者がパンク少年と妙にマッチする様など、物語としてもとても楽しめました。大杉が「インターネット」を「インターナショナル・ネットワーク」つまり「第4インター」と勘違いし、現代に世界革命が成就したと勘違いしてしまうあたりなんかは、思わず笑ってしまいました。
現代の高校生、パンクロック、無政府主義、と一見関係のない物事をつなぎ、この物語を作品として成り立たせているのは、次の一文だったような気がします。
<いや、そうだ。間違いない。アナーキストってのは、実は思想家や運動家じゃないんだ。まぁ、いわば性格とか人柄なんだな。顔を見ればわかるよ、そいつがアナーキストかどうかなんて、すぐにね>(p131)
オビには「痛快『青春』パンク文学」と紹介されています。はじめ、大杉栄が出てくる「青春」文学? って疑問に思いましたが、確かに「青春」文学です。最後のライブのシーンには、謎の感動があります。自分でも、なぜ感動したのか、うまく言葉で説明がつかないのですが…。


2010-10-07

『独女世界放浪記』

いま、都内の某書店でバイトしてます。いつも「次はこれ読もうかなー」って目をつけながら働いているのですが、この本も「次読むリスト」に入ってた本のひとつ。そんな中、まさかの著者ご本人様が営業でご来店! 話を聞いているとやはり面白そう…。仕事中にも関わらず、その場で買って、あつかましいことにサインまでいただいちゃいました。




■女性ならではのトラブル

副題は「世界一周だいたい50カ国、510日」。著者が女性の方なんですが、こういうバックパッカーの旅行記で女性ものって、そういえばあまり目にしたことがありません。というわけで、この本で目立つのは「女性ならではの旅行トラブル」です。具体的に言いますと、要は「旅先であったセクハラ」です(笑)例えば、エジプトでスパイスを買いにでかけたときのエピソード。南さんは、とあるスパイス屋に呼び止められます。
そしてそれからもどんどんスパイスの説明が続く…
「この実をかじると君のナイトライフがグレイトだよ」
「この紅茶を飲むと君のバストは大きくなるよ」
そんなことを言いながら、男はさり気に私の胸元をタッチしてきた。や、やべーこいつ。ちょっとおかしいかも。
(中略)
足元の棚にサフランらしきものがあったので腰をかがめて見ていると、後ろからこう声をかけたれた。
「ほらこれを見て。すごい効果だろ?」
その声に後ろを振り返ると、しゃがんだ私の目線の先には……イスに腰掛けた男が、ワンピースタイプのイスラム服を腰までめくりあげ、
○○○まるだしっ!!
「キャあァァァ~~~っ!!!」
びっくりしてしりもちをつき、後ずさりして逃げ出そうとすると、
「ノーノー、ジャストルック!」
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。見てるだけでとか、そーいう問題じゃないしっ!(pp.106・107)
とまぁこんな具合に、セクハラを受けたエピソードが満載です。実際に著者の南さんにお会しましたが、とっても綺麗な方でした。放浪に出かける前には女優業をされていたそうです。そりゃあ、外人にモテるのも納得です。

女性の一人旅って、やはり男が一人旅をするのとは違った危険があるので、大変ですね。僕なんかは、主な旅先が治安も割といいヨーロッパ中心でしたし、夜も夜景を見るために平気で出歩いてましたけど、女性ではそうも言ってられないので、仲間の女性バックパッカーからうらやましがられたことがあります。

…とはいえ、男でもセクハラにあう危険性はあるので注意が必要っちゃ必要なんですけれどもね…。僕もパリでゲイに○○○をまるだしにされたときには仰天しました。外人って、○○○を見せびらかすのが好きなんですかね? 女性と男性じゃ一口に「襲われる」って言っても違いますけど、自分も同じような体験があるので、南さんの本はかなり感情移入しながら読めました。

■女性ならではの「オトク」

逆に、女性ならではの、得することもあります。作中では、ネパールでの国境越えの際、ビザが切れていたために払わなくてはいけない罰金を、泣き落とし作戦で切り抜けたエピソードなどが紹介されています。そう、男にない女性の最大の武器はやはり「涙」なのかもしれません(笑)いたるところでドリンクをタダで振舞われたって記述がありますが、たぶん男だったらこうはいかなかったんじゃないかな。まぁ、相手がゲイなら、ある程度通用するかもしれませんが…。

日本人女性は海外でモテるので、外人からナンパされやすいみたいです。知り合いに、それを逆手にとって、食事をおごらせたり観光案内させたりしながら全然お金を使わずに旅をしている女の子もいました。曰く、「ローマに一週間くらいいて1ユーロも使わなかった」とのこと。

…とまあ、メリット・デメリットの両方ある女性の一人旅ですが、南さんは「旅の経験は私の宝物」と締めくくっています。旅行記にはその土地の風土や地理・観光名所を紹介するタイプのものと、その土地であった出会いを中心に書くタイプのものがありますが、この本は完全に後者です。やっぱり旅って、見知らぬ人との出会いがあるから最高に面白いんですね。

これから一人旅に出る人、特に女性のバックパッカーには必読の一冊です。


南まいさんのブログ:『ぐるっと!世界一周』


2010-10-05

『武器なき”環境”戦争』

いまや「エコ」だの「環境」だのの本は世にあふれていますが、この本を読んでみようと思ったのは手嶋龍一と池上彰の対談であったこと。なんか面白い組み合わせだなぁ、と思いましたが、そういえば二人とも元NHK組なんですね。もうひとつは、手嶋龍一が著者であることからも明らかですが、「環境」を倫理的・科学的な問題としてではなく、国際政治のスキームとして論じている点に興味を覚えたからです。「環境」についてまともに勉強するのは小学校以来かもしれませんが、基本的な知識をおさらいする意味でも、本書を読んでみました。




■石油時代の終わり
本書の第1章は「『石油の時代』、終わりの始まり」です。僕が「石油時代の終わり」と聞いて必要以上に反応してしまったのは、以前紹介した小説『Limit』と関係があります。書評ではストーリーにほとんど触れませんでしたが、この話の舞台は2025年。人類を支えるエネルギーは石油から月に埋蔵されるヘリウム3へと移行しており、それを宇宙エレベーターを使って地球への大量輸送できるシステムも確立。新しい時代に乗り遅れた石油業界は大きなダメージをうけ、それが物語の核心にも大きく関わってきます。

この物語では、現在からわずか15年後の2025年で石油時代が完全に終わりを迎えているのです。これを「早すぎる」と感じる人も多いと思いますが、実際に『Limit』の登場人物の多くも同じように「時代のパラダイムシフトは突然、それも急速に起こった」と感じており、ついていくのに精一杯です。

手嶋龍一は、この石油時代の終わりの象徴としてメキシコ湾での石油流出事件をあげています。日本のメディアが、その意味に気付いていないで事件をただの事故として報道している点を指摘しつつ。『Limit』の世界では石油を駆逐したのはヘリウム3でしたが、そう遠くない未来、石油に代わる何らかの代替エネルギーが主役に躍り出るのは時間の問題なのでしょう。それが何なのか、本書では明示はされていませんが。

■軍艦・核兵器・二酸化炭素
手嶋:対談ではCO2、二酸化炭素が戦前の軍艦、戦後の核兵器に次ぐ人類の最重要課題になったことが指摘されています。
第1次世界大戦の終結から第2次世界大戦の勃発までのいわゆる選喚起には、列強がどれほどの主力艦を保有しているかが、その国力を測る最も直截な指標でした。従って互いに建艦競争を牽制しあい、戦艦や巡洋艦の保有トン数を制限する海軍軍縮交渉が、国際政治の華やかな舞台としてスポットライトを浴びることになりました。
(中略)
第2次世界大戦後には、軍艦に代わって、核ミサイルこそが東西両陣営の軍縮・軍備管理交渉の主役となりました。
(中略)
これに代わって、1997年の「京都会議」以降、地球温暖化を防ぐ「環境」が、主役として舞台に踊り出てきた観があります。CO2の排出量こそ、その国の経済力、産業構造、省エネ技術、ライフスタイルを反映しているからです。まさしく、CO2削減は、軍艦、核ミサイルに次ぐ、人類の最重要課題となりました。従って、CO2の削減を、狭い環境問題と考えることは誤りなのでしょう。低炭素社会を目指す地球のシステムをいかに設計するのかという問題と捉えるべきなのです。(pp.152-154)

現在国際社会でCO2がいかに扱われているのかを説明するのに、非常にわかりやすい例えだと思います。軍艦・核兵器と同格の存在としてCO2が扱われているのには一見、違和感もありますが、この違和感こそ、日本人が現在「環境」というスキームの中で国際的な駆け引きが行われていることに気付いていない証明なのかもしれません。

手嶋氏の言うとおり、「CO2の削減を環境問題と考えるのは誤り」なのでしょう。倫理的な視点から「CO2を減らせ」と叫ぶのも確かに素晴らしいことなのでしょうが、それ以上に、「CO2の削減」が現在の国際社会のメインサブジェクトであるという認識を広めることも、それ以上に大切なのです。

■国際スタンダード作りが苦手な日本
さて、世界の興味が「CO2の削減」に集まる中、そんな国際社会のルールを定めたのが「京都議定書」であり、そのルール作りにおいて日本は主導権を握れませんでした。このことは「第2章 すべては京都から始まった」で詳しく述べられていますが、日本人の「国際ルール」づくりの下手さについてはよく指摘されるところです。それがなぜなのか、本書に興味深い指摘があったので紹介します。
手嶋:1980年代には、アメリカでベータ対VHSの戦争が熾烈に行われました。まさしくどちらが「グローバル・スタンダード」をとるか、という戦いでした。『電子立国日本の自叙伝』というテレビ番組の秀作がありました。その番組の関係者に聞いたのですが、日本発の技術システムがなかなか「グローバル・スタンダード」として広がらないのは、日本人が海外で布教活動をした経験に乏しいからだ――と。
池上:ああ、それは名言だなぁ。
手嶋:確かに、日本の神道を世界に広げるといった、布教活動の経験をあまり持ってませんね。(pp.178・179)

そこへいくと、キリスト教圏の人々は2000年前のパウロの時代から異民族への布教活動というものを経験として持っているわけですし、ザビエルの時代にはわざわざ地球の裏側にまで自分たちの文化を広めにきているわけです。十字軍やイスラム圏のジハードのように、戦争をしてまで教えを広めるという経験もありませんし、中国の「華僑」のような存在も日本にはありません。実は、僕はいまとあるアメリカの新興宗教(とはいっても18世紀に起こった、比較的古い新興宗教)からオルグを受けているのですが(笑)、彼らの熱心さといったら、とても日本人にはまねできません。布教のためにわざわざ海外に来て、現地で生活する。日本人が海外に行くといったら、まず旅行かビジネスのどちらかでしょう。

こうして考えると、日本人が自分たちの文化を世界に広めるための経験値が、他国と比べて圧倒的に劣っていることがわかります。日本が国際ルールを制定するのが下手なのも、ある意味当然なのかもしれません。だからといって、このままルール作りの競争に遅れをとったままでいい、という話にはならないのですが…。

…とまぁ、こんな具合に、読んでみて思ったのは、本書は「環境」というよりは「外交」「国際政治」の本だったように思います。手嶋さんの外交ウォッチャーとしての指摘は相変わらずさえているし、要所要所で池上さんが的確にわかりやすい説明を加えてくれるので、とても読みやすい。ぜひともこの組み合わせで、別のテーマでも対談をしてほしいですね。

2010-10-03

『Limit』

『深海のYrr』で有名になったフランク・シェッツィングによる長編SF小説、『Limit』に挑戦しました。9月に約2週間の北海道旅行に出かけたのですが、旅の暇な時間に読める、割と長い小説を読もうと思って手を出しました。約600ページ×4巻。いやー、疲れた。



あらすじは、ちょっと複雑な上にネタバレを避けられそうにないので割愛します。興味のある方は上のリンク先、Amazonの内容紹介をご覧ください。

とっても長く、しかも登場人物の多い物語です。正直1巻がキツイ。いきなり多くの人物が出てくる上に、物語に展開がありません。実質、1巻約600ページは登場人物紹介と物語の背景説明で終わります。後半になると、それぞれのキャラクター描写が生きてくるのですが、1巻の話の進まなさにイラついて挫折した方も多いのでは。

2巻あたりからようやく話が動き出しまして、そこからはイッキに読めました。ただ、2025年の話なので、現在では存在しないテクノロジーを余すことなく用いたシーンも多く、ちょっと想像しながら読むのが大変です。『深海のYrr』の映画化が決定しているだけに、今作も映像化を前提に書かれているのかもしれません。壮大な話ですし、アクションシーンも多く、宇宙ステーションや月面が舞台なので、映像化したら面白いことになりそうですが、映画化だけは絶対にやめてほしい。長く、登場人物が多く、さらにテクノロジーや政治的背景の説明がきちんとないとわかりにくい話なので、絶対に2時間の枠には収まりません。連続ドラマなら向いてるかも。

事件の目的や、黒幕の正体が最後の最後まで明かされないので、ラストまで飽きることなく読めます。個人的には、かなり綺麗にオチたと思います。テロの目的がわかったときには「なるほどー」って思いましたし、黒幕の正体が明かされたときには思わず「お前だったのかー!」と心の中で叫びました。

面白さは保証しますが、長いページ数をイッキに読める時間的余裕のない方にはあまりオススメしません。ちょっとずつ読むのは逆に大変だと思います。アクション・諜報・国際政治・SF・人間ドラマと様々な要素をふんだんに取り入れた、総合格闘技の様な小説です。時間のある方は、是非!

2010-04-23

『ユリウス・カエサル ルビコン以後[下]』


塩野七生の『ローマ人の物語』シリーズです。流石に長いので、このシリーズに関しては自分の興味のある部分だけ買ってつまみ読みしてます。DVDで『ローマン・エンパイア』を見たのがきっかけで、カエサル死後のローマ史を復習したくなったので読んでみました。



主人公はオクタヴィアヌス(アウグストゥス)。彼が若かりし頃の活躍と、老いてからの苦悩のシーンを交互に展開。時代が行ったり来たりするのに加えて、誰が誰を演じているのかわかりにくいので、ローマ史の知識がない人がいきなり見ると展開を追うだけで精一杯かもしれない。老いたアウグストゥスを演じるピーター・オトゥールの演技が秀逸。



タイトルは『ユリウス・カエサル』ですが、この巻はカエサル暗殺に始まって、オクタヴィアヌスがその後を継ぐまでの話。事実上、アントニウス&クレオパトラ VS オクタヴィアヌスの戦いがメインです。
内容の要約をしてると、そのまま史実を追うだけになってしまいますので、印象に残った塩野さんの文章の引用だけします。塩野さんの文章は、史実の描写も簡潔・明快でわかりやすい上に歴史だけに留まらない、物事の本質というか、核心を鋭く突いてくる文章が読んでてとても勉強になりますね。
ユリウス・カエサルの名を継ぐことは、1億セルティウスの金の寄贈よりも効力があったのだ。それを解ってて遺したカエサルも見事だが、18歳でしかなかったのにカエサルの真意を理解したオクタヴィアヌスも見事である。世界史上屈指の、後継者人事の傑作とさえ思う。(p109)
…(略)…優れた男は女の意のままにならず、意のままになるのはその次に位置する男でしかない…(略)…
意のままにならなくてもそれでよしとするか、または、器量才能では第一級とはいかなくても、意のままになる男を採るか。クレオパトラは、後者を選んだ。これで、彼女の以後の生き方も決まった。(p153)
カエサルは、自らの後継者と密かに決めた17歳当時のオクタヴィアヌスにアグリッパを配することで、若者に一つのことを教えていたのである。自分にある種の才能が欠けていてもそれ自体では不利ではなく、欠けている才能を代行できる者との協力体制さえ確立すればよいということを、教えたのであった。(p159)
クレオパトラは、ギリシア語・ラテン語はもちろんのことエジプトの民衆の言葉まで解したという。しかし、多くの言語を巧みに操る技能(タレント)と知性(インテリジェンス)は、必ずしもイコールではないのである。(pp179・180)
全15巻、文庫にして40巻以上のこのシリーズですが、カエサル、オクタヴィアヌス、ブルートゥス、キケロ、アントニウス、クレオパトラと豪華な登場人物に恵まれた本編は、特に面白い一冊だと思います。もともとDVD『ローマン・エンパイア』のおさらいをするために読み返しているこのシリーズ。続けて、『パクス・ロマーナ[上]』を読みたいと思います。


2010-04-16

『血戦』

ドラマ『宿命 1969-2010 -ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京-』が面白かったので、続編に当たる『血戦 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京2』を読んでみました。ドラマは上杉景勝…もとい北村一輝演ずる有川崇、彼を支える妻白井尚子、老獪な政治家白井眞一郎と、魅力的なキャラクターに恵まれ、わずか8話ながら、非常に楽しめました。見終わった後、続編にあたる小説が発売中、とのことで即購入。



■ドラマ版との差異

ドラマの原作に当たる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京』上・下巻は読んでいなかったので、まずは小説版とドラマ版のキャラクターの違いに目が行きました。『2』のみ読んだだけでも解る一番の違いは、有川崇と政略結婚の末に結ばれた妻・白井尚子の性格でしょう。ドラマ版では政略結婚でありながらもそれなりに愛に溢れた夫婦生活を営んでいた様ですが、『2』では崇の失脚後、完全に愛がさめてしまっています。ドラマ版の尚子の性格なら、夫が失脚し、冷や飯を食う生活が続いても、2人の間の愛は冷めず、むしろけなげに夫を支えていきそうな気がします。

個人的にはドラマ版の尚子の方が、キャラクター造形的に好きですね。『2』では、ドラマで崇が「あのお嬢さん、なかなか肝が据わってます」と賞賛した尚子の強さがあまり感じられませんでした。
■現実を追う展開
ドラマでは崇が岳父・白井眞一郎に叛旗を翻すところで終わりましたが、『2』では実際に崇が政界に進出するため、眞一郎と同じ選挙区で野党の刺客として出馬し、その選挙戦がメインとなっています。

この選挙戦というのが、民主党による政権交代が実現した、現実世界の2009年の衆議院選挙の流れをトレースした形で展開します。5年に渡る長期政権、後に続く2人の総理の電撃辞任、世界金融危機の発生と与党への逆風、“豪腕”で与党へのゆさぶりをかける野党幹事長・・・。これらの既視感あるできごとが、小説の中でも同じように展開します。

もちろん、我々は政権交代にいたる(いたってしまった・・・)までの一連の政局を見てきたからこそ、この小説の劇的な選挙戦にもリアリティを感じることが出来るのですが、少し現実に起きた出来事に即しすぎているのではないかな、という印象を持ちました。読んでいて、去年の政局をおさらいしているような感覚にすらとらわれてしまいます。もう少し小説オリジナルの展開があっても良かったのではないでしょうか。

あんまり現実の流れに制約を受けすぎてしまうと、今後の小説の展開も、現実の政局に左右されかねないのが心配です。実際に今は民主党政権がボロボロになっていますが、こんな状況の中で(架空の)野党新人議員・有川崇はどう動けるのでしょうか?
■なんだかもったいない・・・
物語全体にいえることなのですが、もう少し深く書き込んだり、エピソードを増やして欲しいな、と思いました。この話の魅力は登場人物のキャラクターと、人物同士の複雑な関係の展開にあると思うのですが、『2』では新しい登場人物も増え、「この人とこの人会話させたら面白そうだなー」と思うことがしばしば。ドラマ45分×8話分と比べると、これだけの話の流れがわずか250ページ、どうしても薄っぺらい印象が否めません。200ページくらい読んで、「え?もう終わり?」と思っていしまいました。この3倍のページを使って、もう少し深くじっくり書いて欲しかった。話自体はとても面白いのに、深く書き込める、という小説形式の利点が感じられません。なんだか、非常にもったいない。

まぁ、ドラマの放送にあわせて急遽書き下ろしたのでしょうか、時間もあまりなかったのかもしれませんが、それだけの力が、作者にはあるように思えます。

ともあれ、プロローグ&エピローグにわずかばかり登場する宣子の存在といい、いかにも「続きます」的な終わり方です。続編が刊行されるのを楽しみにしています。

2009-11-23

『覇王の家』

読書メーターのマイ読了本リストによれば、ダントツで読んだ冊数が多いわりに、レビューを書いたことが無かった司馬遼太郎。徳川家康とその三河武士団を描いた『覇王の家』を読んだので、ちょっと感想を書いてみます。新潮文庫より、上下巻。




本書では家康の生い立ちから死までを描いていますが、秀吉と戦った小牧・長久手の闘いを最後に、豊臣政権時代 - 関が原の闘い - 大阪の陣あたりは完全にスっ飛ばされています。そのあたりは、(まだ読んでいませんが)他の作品、『関が原』や『城塞』などにゆずったということでしょうか。したがって、秀吉の死後、権謀術数を駆使して天下人に上り詰める、一般的な家康の狡猾なイメージとは、違った部分について、多く触れられており、ちょっと意外な印象を持ちました。

特に上巻では、(チェックを入れずに読んでいたので、具体的な箇所を忘れてしまい、引用が出来ないのですが)信長の同盟者として、ただひたすら律儀に、馬鹿正直に生きる家康像が描かれています。今年の大河ドラマ、『天地人』なんかをみていると、松方弘樹の演技もあって、憎たらしい陰謀家のイメージが先行してしまいますが、むしろ家康の前半生は、律義者だけに多くの損をし、それがゆえに戦国の世を生き残った印象を持ちました。

■日本人の原型としての家康


ここからは引用ありでいきますが、家康についての評論が、どうもそのまま日本人論に通じてしまってる部分がいくつかあったので、紹介してみたいと思います。
かれ(家康)は不幸なほどに独創性薄くうまれついていた。つねに先人がやった事例を慎重に選択して模倣した。
(中略)結局は模倣家というのは、才能の質よりも多分に性格なのかもしれない。家康はむしろ独創を激しくおそれるところがあった。独創的な案とは、多量の危険性をもち、それを実行することはサイコロを投げるようなもので、いわば賭博であった。模倣ならば、すでにテスト済みの案であり、安全性は高い。
(中略)しかも徳川幕府は、進歩と独創を最大の罪悪として、三百年間、それを抑圧しつづけた。あらたに道具を発明する者があればそれを禁じ、新説に対しては妖言・異説としてそれを禁じた。異とは独創のことである。異を立ててはならないというのが徳川幕府史をつらぬくところの一大政治思想であり、そのもとはことごとく家康がつくった。家康の性格がそうさせたものとみていい。(下巻P64、65)
この、模倣に関しては才能があるのに独創的な案を嫌う、というのは、日本人のイメージとも重なる気がします。よく日本人は、トップに追いつくまでには凄まじい勢いを発揮するのに、1位になったとたんにオリジナリティを発揮できずに没落する、と言われます。現に、明治維新後も凄まじい勢いで欧米列強に追いつき、敗戦後も奇跡的な高度経済成長を成し遂げましたが、その後は混迷の時代を迎えました。

「独創を最大の罪悪」とするのも、スタンドプレーを嫌い、周囲との協調性を第一に重んじる日本人像とも重なりますし、今日の日本人の原型は、徳川幕府300年間、ひいては家康の性格にあるのではないか、という気がします。
日本歴史というものは、中国やヨーロッパの概念で言う英雄を一人も生んでいない。そのような、神が生んだとしか言いようのない天才的自己肥大の精神や行動を許容して社会そのものが感応し作動する条件が、日本の地理的・社会的風土のなかにはすくないためであるかもしれない。それはそれで、日本社会のおもしろさだとは思うのだが、要するにこの稿の主人公は、歴史を変えたというその作業のわりには、中国やヨーロッパの概念の英雄からもっとも遠い存在なのである。(P365)
この小説では、家康に英雄的気質がない、ということに関して一貫して触れています。先に触れた、独創性を嫌い、もっぱら模倣に徹した部分もそうです。ただ、このあたりも、個人の資質に頼った戦い方よりも、組織の力強さで戦う日本人の気質に通じる部分があるように思います。

戦国時代を終わらせた人間を描いた小説であるはずなのに、『竜馬がゆく』のように、主人公に感情移入できる壮快さがまるでないのが、この本の印象です。その意味で、この小説のタイトルに出てくる「覇王」という表現は、司馬さんも「少し大げさすぎるかもしれない」とあとがきで触れているように、家康に最も遠い形容のような気がしました。

2009-11-18

『ローマから日本がみえる』

『ローマ人の物語』の塩野七生による、ローマ本。全体を通してローマの誕生から興亡まで触れていますが、『ローマ人の物語』をそのまま凝縮したような内容…になっているわけではありません。



本書を通じての全体のテーマは、「真の改革とは何か」です。ローマの歴史のうち、改革や変化の時代に、著者の力が込められている気がします。読んでいて、ローマの歴史とは、

  • 新たなる問題の発生
  • →それを解決するための改革
  • →その弊害や新しい状況下で新たな問題発生
  • →また改革
の繰り返しなんだということがよくわかりました。著者も、「改革」を論ずるにあたって念頭に日本の現状があるらしく、昨今の日本の状況と照らし合わせてみて、なるほど、と思うことがたくさんありました。ちなみに本書の発刊は2005年6月となっていますが、改稿元の『痛快! ローマ学』の発刊は2002年12月。日本中に「改革」の言葉が鳴り響いた、小泉政権時代の真っただ中に書かれた本です。ちなみに現在は、文庫になっているそうです。

■真の改革とは再構築リストラクチャリング

ともすれば改革とは古い殻を脱ぎ捨てて、新しい制度を起こすことだと思われがちです。しかし、真の改革とは結局のところ、リストラクチャリング、つまり再構築をすることであり、カエサルが行なおうとしたのも、それに他なりませんでした。
どんな民族であろうと、どんな組織であろうと、自分たちの体質にまったくないものを外部から持ってきて移植してうまくいくはずもない。たとえ一時は劇的な成功を収めたとしても、土壌に合わない改革では定着はまずもってむずかしい。
したがって、改革とはまず自分たちが持っている資質や特質の、どれを生かし、どれを捨てて組み合わせていくかという再構築の形をとるしかないのです。(P216)
…とはいっても、改革は単に思い切りがよければそれでいいのかといえば、けっしてそうではない。
なぜならば、それぞれの国家や組織にはそれぞれの歴史と伝統があり、これを無視した改革をおこなってもうまくいくはずがないからです。
自分の手持ちカードがなんであるかをじっと見据え、それらの中で現在でも通用するものと、もはや通用しなくなったものを分類する。そして、今でも通用するカードを組み合わせて最大の効果を狙う。これがまさに再構築するという意味での真のリストラだと私は考えます。(P293)

おそらく、著者の頭の中には、アメリカ流の新自由主義経済を導入しようとした小泉改革が念頭にあるのでしょう。改革、というと、古いものを捨てて新しいものを取り入れるとだと思われがちですが、「今でも通用するカード」なら、手札に加えて用いていい。手札をそっくり入れ替えるのではなく、強いカードは残しておいて、勝負に必要のないカードを入れ替える。要は改革、すなわち再構築とはポーカーと同じだってことですね。

日本人は何か新しいことを始めるとき、相手の強いカードに目移りして、「だから日本は世界から遅れている」という発想になりがちです。が、相手の強さに学ぶのと同時に、自分の長所や性格を再確認する作業も、同じくらい重要なのです。そして、両者を再構築する。それこそが真の改革である、と。

それにしても、塩野さんの文章は、文中で「私はカエサルのように簡潔で明快な文章が好き」と仰っているだけあって、非常に読みやすく、スラスラと頭に入ってきますね。約350ページのダイジェスト版ローマ史なので、塩野さんも泣く泣く細かい部分を割愛しているようですが、それでも「ディテールにこそ、歴史の醍醐味はある」(P144)と宣言されるあたりには好感が持てました。

あと、本書の巻末についている、歴代ローマ指導者の採点表が面白いです。塩野さんのお眼鏡でみると、「あれ、アントニウスの点数、こんなに低いんだ」とか、彼女の視点でバッサバッサ切り捨てていく評論がなんとも痛快。これと同じ採点を日本の政治家にも当てはめてみたら面白そうです。


2009-10-14

『日本の難点』

先日書いた「小さな政府・大きな社会」の話、そういえば以前に読んだ宮台真司の『日本の難点』にも書いてあったなー、と思ったら、いろいろと詳しく書いてありました。




こうした状況を最初に概念化したのは、新自由主義を標榜するサッチャー政権とメイジャー政権下で大臣を歴任した保守党政治家ダグラス・ハード男爵の「能動的市民社会性」という概念です。具体的には家族や地域や宗教的結社に見られる相互扶助(が支える社会的包摂)を指しています。
「能動的市民社会性」や「市民的相互扶助」の概念は、労働党系政治学者デビッド・グリーンから保守党系政治学者バーナード・クリックを経て労働党系社会学者アンソニー・ギデンズに継承されます。新自由主義はもともと“「小さな政府」で行くぶん「大きな社会で包摂せよ」”という枠組だったのです。
家族や地域や宗教的結社の相互扶助―あるいはそこに見られるビクトリア朝的伝統―をベースに、“「大きな社会」で包摂せよ”というメッセージですから、市場原理主義とは似ても似つかないものです。ネオリベとして揶揄される枠組は、「小さな政府」を市場原理主義として誤解したものに過ぎません。
その意味で、元々の新自由主義と、いわゆるネオリベとは区別しなければなりません。ネオリベ=市場原理主義は、「小さな政府」&「小さな社会」の枠組です。新自由主義の「小さな政府」&「大きな社会」の枠組とは全く違います。(中略)
むろん不人気さゆえにこの看板は用いませんが、その意味ではアンソニー・ギデンズも新自由主義者だといえます。(P133-135)
アンソニー・ギデンズの唱えた「第3の道」は、ダグラス・ハードの唱えた「小さな政府・大きな社会」の枠組みを継承したもので、合ってたんですね。いやぁ、すっきりと謎が解けて良かった。


2009-10-13

『日本流ファシズムのススメ。』

田原総一郎を司会に、佐藤優と宮台真司の対談です。



本書のメインテーマとはすこし離れるかもしれませんが、印象に残った点を抜粋します。

■小さな政府・大きな社会

宮台:新自由主義といえば市場原理主義と勘違いされがちですが、もともとはまったく違うものです。サッチャー政権ならびにメージャー政権のときにいろんな大臣を歴任したダグラス・ハード男爵が言い出したことなんですね。
論点はふたつあって、ひとつは、財政が破綻したから財政を立て直すべきで、福祉国家主義はもう無理だということ。しかし、もうひとつあります。福祉国家化によって働かずにタダ飯を食らうような輩が、社会を空洞化させてしまうということです。
(中略)いずれにせよ、破たんした財政の立て直しの観点と、空洞化した社会の立て直しの観点から、小さな政府を主張したんですね。
ただし、市場原理主義とは違います。小さな政府にしちゃった部分をカバーするために、大きな社会をつくりましょうと提唱したのが、元祖新自由主義者のダグラス・ハードです。大きな社会とは、これすなわち、相互扶助によって包摂性がある社会ということです。(P21.22)
今、日本で「小さな政府」というと小泉政権時代の一連の改革だとか、それによって生じた格差の拡大、地方の疲弊など、マイナスなイメージしか湧いて聞いませんが、こういわれて初めてなるほど、と思いました。本来、小さな政府の大前提として、包摂性のある大きな社会が存在しなければならない。財政を立て直すために、政府の機能は小さくする。ただし、そのぶん大きな社会で国家全体のレベルを維持する。このあたり、社会を強化することが国家を強化することにつながる、という佐藤優の『国家論』の内容とも一致します。

宮台は包摂性のある社会の実例として、貴族が救貧院や学校・病院をつくって貧民を助けるイギリス・ビクトリア朝の伝統や、中国・ユダヤ社会における血縁ネットワークをあげています。たしかに、このような社会では、政府が対応しきれなかった問題を社会が解決してくれるわけです。いわば、社会的な勝者・強者が敗者・弱者を救ってくれる訳ですから、小さな政府でもやっていけるわけです。

しかし、地域性や人と人とのつながりが失われつつある日本は、いわば「小さな政府、小さな社会」となってしまっているわけで、政府が解決しきれない問題は、社会も対応できないと。佐藤優が、ときどき「ホリエモンもあれだけ儲かっておいて、貧しい人にいくらかの寄付なり援助なりをしていたら、逮捕されることはなかったんじゃないか」といったことを発言していたと思いますが、今の日本では、勝者・強者が敗者・弱者を放ったらかし、という包摂性のない社会になってしまっているからこそ、小さな政府が問題なのでしょう。

今回の自民党総裁選でも、やや暴走ぎみの感があった河野太郎が小さな政府論を唱えていましたが、小さな政府論者の人たちは、単に「財政がもたないから」とか、「自由競争が大切」とかいうよりも、まず大きな社会の創設を提唱してから、「じゃあ、小さな政府でいこう」って言ったほうが、聞こえがいいんじゃないでしょうか。

民主党との対比して、小さな政府路線は、対立軸としては明確でわかりやすいのですが、どうも日本国民の間には、小さな政府という言葉がもたらすイメージに対してアレルギー反応というか、もう止めてくれ、というのが一般的だと思います。「大きな社会・小さな政府」というフレーズなら、多少聞こえもいいと思うのですが、小泉路線を継承しようって考え方の皆さん、どうでしょう?


■ = 第3の道?


…と、ここまで書いてふと疑問が浮かんだのですが、「小さな政府・大きな政府」の枠組みとは、イギリスの社会学者・アンソニー・ギデンズが唱え、ブレア政権の政策として採用された「第3の道 The third way」の考え方とは違うのでしょうか?

第3の道、とは、「ゆりかごから墓場まで」の標語に象徴される、イギリス労働党型の高福祉社会(第1の道)でもなく、サッチャー保守党型の規制緩和・国有企業民営化路線(一般に想像されるところの新自由主義)でもなく、市場の効率を認めつつも、国家が機会の平等を保障する、いわば両者の複合型のような路線のことです。

第1の道が「大きな政府・大きな社会」、第2の道が「小さな政府・小さな社会」だとすれば、いわゆる「第3の道」路線は「小さな政府・大きな社会」の枠組みになるのではないでしょうか?現に、ブレアも左派・労働党の政治家でありながら市場の機能を多用しましたし(=小さな政府)、一方で、社会的コミュニティーの充実にも関心を寄せました(=大きな社会)。

・・・とすると、先ほど宮台が元祖新自由主義者として紹介したダグラス・ハードが気になります。彼は保守党でサッチャーに仕えた政治家で、「第3の道」路線を採用したブレア労働党とは敵対するはずなのですが…。結局、「第3の道」路線のブレア労働党も、保守党のダグラス・ハードも、「小さな政府・大きな社会」の枠組みでは一緒ってこと?



(追記:宮台真司の『日本の難点』によれば、上記の内容であってました。詳しくはこちら)

2009-05-16

『獄中記』

佐藤優が、微罪容疑により逮捕され、獄中にいたときの手記をまとめた一冊。岩波現代文庫から文庫化されたので、読んでみました。




非常に内容の濃い本なので全部は紹介できませんが、ちょっと勉強になったところを引用します。学術書の読み方について。

私が学術書を精読するときは、同じ本を三回、それも少し時間をおいて読むことにしています。
第一回目 ノートやメモをとらず、ときどき鉛筆で軽くチェックをして読む
第二回目 抜粋を作る。そして、そのとき、内容を再構成した読書ノートを作る
第三回目 理解が不十分な箇所、あいまいな箇所についてチェックする
このような読み方をすると、10年経っても内容を忘れることがありません。(P169)

これはとても参考になります。自分はこれまで、学術書や論文を読むときに、齋藤孝流の「三色ボールペン読書術」を使って線を引きながら一度読み、大事だと思った部分だけ読書ノートに写経する、という勉強法を行っていました。しかし、それっきりで終わることも多く、読書語の消化不足も否めない状況に陥っていたことは否めません。三回にわけて、それも「時間をおいて読む」というところがポイントでしょうか。やっぱり、頭に定着させるには、手間暇を惜しんではいけませんね。
今、ブレア政権が掲げた政治路線を理解するために、アンソニー・ギデンズの『第3の道』という本を読んでいるので、早速佐藤優流の読書術を試してみたいと思います。


2009-04-12

『養老孟司の人間科学講義』

養老孟司氏による、人間を科学するお話。




手法は科学的。 内容は哲学的。
あぁ、この人の目(というか脳)には、 世界はこういう風にみえているんだなぁって思う本。 『バカの壁』シリーズと比べるとやや難しい気もしますが、 本人もあとがきで述べている通り、
「当たり前を難しく説明するのが学問か。 そう訊かれると、そう」(P267)

なのかもしれません。 このあとがきの一文を読んで、 あぁ、この本はまさにこの一文を体現した一冊だなと思いました。

そうなんです。この人の言っていることは、いつだって「当たり前」のこと(このあたり、故・池田晶子女史の哲学に通じちゃうあたりがどうも不思議)。 言いたいこと言ってるなぁ、って養老節もいつもの通り。 なんだかこの人の文章読むと、気分が爽快になります。

次は渡部昇一との対談を読んでみよう。


2008-11-07

『ラーメン屋vs.マクドナルド』

何かの週刊誌(東洋経済だったかな?)の書評で紹介されていて面白そうだったのが、BOOK OFFの100円コーナーに並んでいたので読んでみました。



タイトルからすると一体何の本なんだ?といった感じですが、本書で展開されているのは日米比較論です。
  • 第1章 マックに頼るアメリカ人 vs ラーメンを極める日本人
  • 第2章 希望を語る大統領 vs 危機を語る総理大臣
  • 第3章 ディベートするアメリカ人 vs ブログする日本人
  • 第4章 ビル・ゲイツ vs 小金持ち父さん
  • 第5章 一神教 vs アニミズム
  • 第6章 消費者の選別 vs 公平な不平等
など、各章の見出しを並べてみるとわかるとおり、日米のあらゆるものを比較の材料にして、両国の文化を浮き彫りにしています。今回は、特に面白かった第3章、「ディベートするアメリカ人 vs ブログする日本人」を取り上げてみたいと思います。

■文字文化 vs 対面文化


よく言われることに、日本人はスピーチやディベートが下手、ということがあります。その反面、ブログの書き込み言語の世界シェアは、英語の36%を押さえて、日本語の37%が世界トップ。対面では激しい言いあいを好まない日本人が、ネット上の匿名掲示板では激しい罵詈雑言を浴びせあう。
公の場でおとなしい日本人が、なぜネット世界では激しいやり取りを行うのか、という疑問から考察が始まります。

ここで著者は、日米の文字文化における、習得すべき文字数の違いに注目します。日本語をまともに読み書きできるようになるためには、ひらがな46文字、カタカナ46文字に加えて、1000から2000の漢字を覚える必要があります。それに対し、英語の読み書きに必要な文字数は、わずか26文字のアルファベットのみ。必然的に、日本の子供は読み書きに多くの時間を費やさなければならないのです。
日本人は子供時代に「書く」ことを学ぶためにアメリカ人とは比較にならないほどの学習労力を費やしている。(中略)書く訓練に多くの労力を費やせば必然的に犠牲になる訓練が出てくる。それが口頭でのプレゼン能力、大勢の前で話し、討論する訓練である。(P71)
(アメリカは)アルファベットという、比較的簡単な文字体系を持ったことが、口頭プレゼン訓練により多くの時間を費やすことを可能にし、この二つの文化要素は相補的に強化されてきたのではないだろうか。(P74)
知識人を目指す中国や日本の子弟は文章作成訓練により、多くの時間を費やし、複雑な文字体系を駆使した文章文化を発達させた。一方で、西洋の子弟は別のプレゼン技術の訓練に時間を費やした。その結果生み出されたのが弁論文化である。(中略)古代ギリシャ時代のソフィストらの弁論術、ソクラテスの問答法は、口頭プレゼン、ディベート重視の文化的原点であろう。(P76)
以上のことから、文字文化の「ブログ」という土俵で日本人の活動が活発な理由が説明できると筆者は言います。確かに、説得力があります。文字体系の違いが、民族性にも影響するのですね。言語の概念が人間の思考を規定する、といったのは言語学者のソシュールですが、どうやら言葉の読み書きに使う文字数もそれぞれの民族の思考や文化を規定するようです。

■討議は闘技


経歴を見ると、著者の竹中氏は、三菱東京UFJ銀行の調査部の方で、現在はワシントンDCの駐在員なんだそうです。本書の中にも、アメリカのシンクタンクでの議論の場面などが何度か登場するのですが、そこでしきりにアメリカ人の議論好きを指摘しています。

これは、私もヨーロッパ放浪中にダイレクトに感じました。日本人の会話というのは、思ったことを交互に述べ合う、エッセイ的な内容が多い気がしますが、西洋人と会話をしていると、どうも会話なんだか喧嘩なんだか、解らなくなってしまうことが何度かありました。彼らはどうも、お互いの意見をぶつけ合うやりとりの方が、面白いみたいです。
(アメリカは)雄弁を駆使して討論し、聴衆を納得させる能力が高く評価されるディベート・カルチャーの社会である。そして、「討議は闘技」なのである。自分の主張の強い部分を前面に押し出し、弱い部分は見せないように議論を組み立てなくてはならない。従って、パブリックでの議論は「駆け引き」に満ちたものになる。(P94)
昨日、オバマがアメリカの次期大統領に決定しましたが、一連の選挙におけるディベート大会などでは、オバマ・ヒラリー間で "Shame on Hillary !"(恥を知れ、ヒラリー!) "Shame on you !"(あんたこそ恥知らずめ!)などというやりとりが見られ、それは正に「討議は闘技」の様相を呈していました。

最近、僕は自分の専攻の関係で、よくイギリスのPMQ(Prime Minister's Question 首相答弁)の議事録や動画を見るのですが、その有様はまさに「闘技」です。議場のメインテーブルを挟んで、両党の党首が激しいやり取りをする。殴られても殴り返す。まるでボクシングの試合のようです。

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動画は、現英国首相・労働党党首ゴードン・ブラウンと影の首相・保守党党首デーヴィッド・キャメロンのやりとり。それぞれ後ろには、労働党副党首のハリエット・ハーマン、財務相アリスター・ダーリング、大法官ジャック・ストロー、保守党側には元党首・影の外相ウィリアム・ヘイグ、影の財務相ジョージ・オズボーンら錚々たる面子が控えます。

日本の国会答弁で、閣僚やベテラン議員が居眠りをしているのとは、まるで大違いです。
実は自分も、文章を書くよりも「駆け引きに満ちたやりとり」のほうが好きだったりします。本音を言えば、こんなブログを書くよりも、読んだ本に関する意見や感想を言い合える仲間が欲しい(笑)