ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2010-10-05

『武器なき”環境”戦争』

いまや「エコ」だの「環境」だのの本は世にあふれていますが、この本を読んでみようと思ったのは手嶋龍一と池上彰の対談であったこと。なんか面白い組み合わせだなぁ、と思いましたが、そういえば二人とも元NHK組なんですね。もうひとつは、手嶋龍一が著者であることからも明らかですが、「環境」を倫理的・科学的な問題としてではなく、国際政治のスキームとして論じている点に興味を覚えたからです。「環境」についてまともに勉強するのは小学校以来かもしれませんが、基本的な知識をおさらいする意味でも、本書を読んでみました。




■石油時代の終わり
本書の第1章は「『石油の時代』、終わりの始まり」です。僕が「石油時代の終わり」と聞いて必要以上に反応してしまったのは、以前紹介した小説『Limit』と関係があります。書評ではストーリーにほとんど触れませんでしたが、この話の舞台は2025年。人類を支えるエネルギーは石油から月に埋蔵されるヘリウム3へと移行しており、それを宇宙エレベーターを使って地球への大量輸送できるシステムも確立。新しい時代に乗り遅れた石油業界は大きなダメージをうけ、それが物語の核心にも大きく関わってきます。

この物語では、現在からわずか15年後の2025年で石油時代が完全に終わりを迎えているのです。これを「早すぎる」と感じる人も多いと思いますが、実際に『Limit』の登場人物の多くも同じように「時代のパラダイムシフトは突然、それも急速に起こった」と感じており、ついていくのに精一杯です。

手嶋龍一は、この石油時代の終わりの象徴としてメキシコ湾での石油流出事件をあげています。日本のメディアが、その意味に気付いていないで事件をただの事故として報道している点を指摘しつつ。『Limit』の世界では石油を駆逐したのはヘリウム3でしたが、そう遠くない未来、石油に代わる何らかの代替エネルギーが主役に躍り出るのは時間の問題なのでしょう。それが何なのか、本書では明示はされていませんが。

■軍艦・核兵器・二酸化炭素
手嶋:対談ではCO2、二酸化炭素が戦前の軍艦、戦後の核兵器に次ぐ人類の最重要課題になったことが指摘されています。
第1次世界大戦の終結から第2次世界大戦の勃発までのいわゆる選喚起には、列強がどれほどの主力艦を保有しているかが、その国力を測る最も直截な指標でした。従って互いに建艦競争を牽制しあい、戦艦や巡洋艦の保有トン数を制限する海軍軍縮交渉が、国際政治の華やかな舞台としてスポットライトを浴びることになりました。
(中略)
第2次世界大戦後には、軍艦に代わって、核ミサイルこそが東西両陣営の軍縮・軍備管理交渉の主役となりました。
(中略)
これに代わって、1997年の「京都会議」以降、地球温暖化を防ぐ「環境」が、主役として舞台に踊り出てきた観があります。CO2の排出量こそ、その国の経済力、産業構造、省エネ技術、ライフスタイルを反映しているからです。まさしく、CO2削減は、軍艦、核ミサイルに次ぐ、人類の最重要課題となりました。従って、CO2の削減を、狭い環境問題と考えることは誤りなのでしょう。低炭素社会を目指す地球のシステムをいかに設計するのかという問題と捉えるべきなのです。(pp.152-154)

現在国際社会でCO2がいかに扱われているのかを説明するのに、非常にわかりやすい例えだと思います。軍艦・核兵器と同格の存在としてCO2が扱われているのには一見、違和感もありますが、この違和感こそ、日本人が現在「環境」というスキームの中で国際的な駆け引きが行われていることに気付いていない証明なのかもしれません。

手嶋氏の言うとおり、「CO2の削減を環境問題と考えるのは誤り」なのでしょう。倫理的な視点から「CO2を減らせ」と叫ぶのも確かに素晴らしいことなのでしょうが、それ以上に、「CO2の削減」が現在の国際社会のメインサブジェクトであるという認識を広めることも、それ以上に大切なのです。

■国際スタンダード作りが苦手な日本
さて、世界の興味が「CO2の削減」に集まる中、そんな国際社会のルールを定めたのが「京都議定書」であり、そのルール作りにおいて日本は主導権を握れませんでした。このことは「第2章 すべては京都から始まった」で詳しく述べられていますが、日本人の「国際ルール」づくりの下手さについてはよく指摘されるところです。それがなぜなのか、本書に興味深い指摘があったので紹介します。
手嶋:1980年代には、アメリカでベータ対VHSの戦争が熾烈に行われました。まさしくどちらが「グローバル・スタンダード」をとるか、という戦いでした。『電子立国日本の自叙伝』というテレビ番組の秀作がありました。その番組の関係者に聞いたのですが、日本発の技術システムがなかなか「グローバル・スタンダード」として広がらないのは、日本人が海外で布教活動をした経験に乏しいからだ――と。
池上:ああ、それは名言だなぁ。
手嶋:確かに、日本の神道を世界に広げるといった、布教活動の経験をあまり持ってませんね。(pp.178・179)

そこへいくと、キリスト教圏の人々は2000年前のパウロの時代から異民族への布教活動というものを経験として持っているわけですし、ザビエルの時代にはわざわざ地球の裏側にまで自分たちの文化を広めにきているわけです。十字軍やイスラム圏のジハードのように、戦争をしてまで教えを広めるという経験もありませんし、中国の「華僑」のような存在も日本にはありません。実は、僕はいまとあるアメリカの新興宗教(とはいっても18世紀に起こった、比較的古い新興宗教)からオルグを受けているのですが(笑)、彼らの熱心さといったら、とても日本人にはまねできません。布教のためにわざわざ海外に来て、現地で生活する。日本人が海外に行くといったら、まず旅行かビジネスのどちらかでしょう。

こうして考えると、日本人が自分たちの文化を世界に広めるための経験値が、他国と比べて圧倒的に劣っていることがわかります。日本が国際ルールを制定するのが下手なのも、ある意味当然なのかもしれません。だからといって、このままルール作りの競争に遅れをとったままでいい、という話にはならないのですが…。

…とまぁ、こんな具合に、読んでみて思ったのは、本書は「環境」というよりは「外交」「国際政治」の本だったように思います。手嶋さんの外交ウォッチャーとしての指摘は相変わらずさえているし、要所要所で池上さんが的確にわかりやすい説明を加えてくれるので、とても読みやすい。ぜひともこの組み合わせで、別のテーマでも対談をしてほしいですね。

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