ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2010-11-14

『「昭和」という国家』

おそらく日本の歴史に関わる以上は、永久的に逃れることはできないであろう問、「日本はなぜあの戦争に負けたのか」について、司馬遼太郎が真正面から取り組んだ本です。



この問に関しては、色々な方々がいたるところで発言されてます。「あの時代の日本はおかしかった」「一部の頭の悪い人たちが起こした戦争だ」などといった、多少「乱暴」な意見もある一方、最近は少し冷静に「そもそもなぜ負けるとわかっていた戦争に突入せざるを得なかったのか」「有能な人材がいたにもかかわらず、なぜ彼らに活躍の場が与えられなかったのか」といったことが論じられるようになり、時代とともに、「あの戦争」が「体験」としてでなく、「歴史」として、きちんと分析対象として冷静に語られるようになってきた印象があります。

そういう意味では、自身も従軍経験のある司馬遼太郎にとって、昭和時代は「冷静」に見ることのできる対象ではないのかもしれません。実際、司馬は本文中で
いったい、こういうばかなことをやる国とは何なのだろうかということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということの最初の疑問となりました。(p4)

と、昭和時代への違和感を隠しません。ちなみに「こういうばかなこと」とは、ノモンハン事件を指しています。「日本は明治まではよかったが、昭和からまるで駄目になった」という、いわゆる司馬史観も批判されがちな昨今ですが、本書では司馬さんは司馬さんなりに、「では、昭和の日本が駄目になってしまったのはなぜか」について精一杯考察していまして、中には傾聴に値する意見もあります。僕が一つ興味深く感じたのは、「日本は近代化の過程で江戸時代を捨ててしまった」という指摘です。主に
  • 第9章 買い続けた西洋近代
  • 第10章 青写真に落ちた影
  • 第11章 江戸日本の多様さ
あたりで詳しく述べられている話なのですが、そこで司馬さんが一貫して述べているのは、江戸時代がいかにリアリズムの時代であったか、かつ、多様性にあふれた時代であったかについてです。一方で、昭和時代はその江戸期の遺産引き継ぎに失敗し、空疎な精神主義に陥ってしまった、とも。
昭和元年から二十年の話をずっとしていますが、話していると、だんだん覇気がなくなってきますね。私もその時代の末端に属していながら、青春が末端に属していながらですね、そして同じ民族でありながら他民族の話をしているようです。そして、いまだに思うことはひとつです。
あれは日本だったのだろうか。
むしろ、本当の日本は江戸時代の文明、江戸文明にあったのではないか。江戸中期以後のリアリズムを中心とする、技術をものを見続けて思想を作り上げた代表者たちとわれわれは結びつく。先に話しましたように、職人が好きで、技術が好きな民族なんだと。(pp124・125)
とにかく明治政府というものは江戸期を否定し、そして明治以後の知識人は、軍人を含めて、江戸的な合理主義を持たなかった。それはやはり、何か昭和の大陥没とつながるのではないでしょうか。(中略)
われわれ技術好き、職人好きの民族は、昭和元年から二十年までの間、抑圧されていた。戦後にその留め金がとれ、江戸期に直結したのではないかと思うぐらいです。こういう言い方は非常に正確だと思うのです。(pp133・134)

ちょと極端な言い方をすると、司馬さんは「江戸時代は良い日本で、昭和時代は悪い日本」だと言いきっています。しかも、そういう言い方を「非常に正確だと思う」とまで。こういう、昭和時代を問答無用で切り捨てる司馬さんの態度は、最近よく批判されがちですね。ただ、江戸時代は技術と多様性に支えられた社会で、とそれはそれでひとつの完成した世界だった、というのは納得させられました。近代化の過程で、西洋文明を取り入れた日本は、江戸時代を完全に忘れてしまった。それは実はとても、もったいないことだったのではないか、と司馬さんは言っている様に思います。

敷衍すれば、取り入れた西洋文明と、昔ながらの江戸文明、この二つを有効にミックスした近代化こそが、日本がとるべき国家像だったのかもしれません。

ただ、明治政府が江戸時代の負の部分 = 硬直し、機能不全に陥った徳川政権を否定して成立した以上、江戸時代を忘れ、西洋の列強に対抗するために西洋文明を吸収せざるを得なかったのは、歴史の必然です。そのような流れの中で、「江戸時代を忘れない明治維新」「旧時代を捨てない新政権」というのは、あの時代にはたしてありえたのだろうか?という疑問が生じます。世の中に変化を起こすには、「過去の否定」が必要です。「変革」とは「過去を否定」することで、新しい価値観を根付かせる行為です。江戸時代を否定し、西洋からの技術を貪欲に取り入れたからこそ、明治維新は成功したのであって、過去(=江戸時代)を中途半端に引きずったままでの明治維新なんて、あり得るのだろうか。そんな「架空の明治時代」がありえたとして、その架空の明治では、江戸時代の文化が邪魔をして、あまり西洋の技術が根付かなかったのではないか? それで果たして、西洋列強と張り合うことができたのだろうか? と、どうしても考えてしまいます。

ただ、司馬さんが言うように「技術好き、職人好きの民族」であることが日本人の本来の姿である、というのには共感できます。日本人は今でも技術力で世界と戦っていますし、マクロな戦略よりもミクロの戦術に強いのが日本人です。ただ、このまま技術に強いだけではこの国際化の時代に日本はどんどんガラパゴス化していってしまう、というのは最近よく言われることでありまして、「技術」をひたすら追求するだけでなく、得意な「技術」をいかに国際スタンダードにするか、ということも、これからの日本人は考えていかなくてはなりません。
(参考→『武器なき“環境”戦争』)

さて、「日本はあの戦争になぜ負けたのか」という問に対する、司馬遼太郎のひとつの回答は「江戸時代を捨ててしまったからだ」でした。この問題に対する答えは、おそらく一つではないでしょう。というかそもそも、「正解」があるのかどうかも分かりません。ただ、この問題を考える上で、あるいは日本人とは何者か、という問いを考える上で、本書が一つのヒントを与えてくれることは間違いありません。興味のある方は、ぜひご一読ください。できれば、『「明治」という国家』も併せて。

2010-10-30

70年来の風景(2010.09.06)

前日は遅くまで飲んでいたので、祖父に起こされて遅めの起床。ところが、朝食をとりに部屋を出ようとすると…

「わりぃ、俺風邪ひいたみたい。今日ダメだわ」

弟、まさかの風邪ダウン!

まぁ、慣れない旅と興奮で体調のペースが崩れたのかもしれません。仕方がないので、弟を部屋に残し、午前中は祖父と二人で小樽を見下ろす天狗山へ向かいました。残念ながら雨が降っていますが、空には雲にの途切れもあるので、途中で晴れることを祈りつつ出発です。駅前からバスに乗って、まずは天狗山ロープウェイ乗り場まで向かいます。

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▲小樽駅前。空は青いが、実際にはお天気雨。

すでに触れたように、小樽は祖父が幼いころに住んでいた街です。バスでの移動中、祖父は小樽の景色を見ながら僕に昔の思い出を語ります。

「昔あのへんに住んでいたんだ。ちょうど、あの路地の裏あたりに」

「あの坂はずいぶんと急勾配だろう。毎日上るのが大変だった。みんな地獄坂と呼んでいたんだ」

もう何10年も昔の話ですが、昔確かに、祖父はこの街で暮らしていたんだなぁと実感しました。

ロープウェイに乗って、山頂へ。天狗山の街に面した斜面は、冬にはスキー場として使われ、このロープウェイもスキー客を山頂へと運ぶリフトとして活用されます。もちろん、祖父が小樽に住んでいたころにはこんなものはなく、歩いて山頂までのぼり、街のふもとまで直滑降で滑って降りてきたそうです。

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徐々に高度を増していくリフトに乗りながら、

「速いやつはなぁ、山頂から…そう、あそこに見える学校のあたりかな。昔はなかったんだけれども、あのあたりまでは昔はまだスキー場になってたんだ。あのあたりまで、だいたい2分くらいですっ飛ばして滑り降りていったもんだよ。俺はそんなに速い方じゃなかったから、あそこまで滑るのに3分くらいかかったけれど」

と語る祖父。山頂の駅に着くと、その景色に感動しました。ちょうど雨も止み、雲は残っているものの青空が広がって、かなり遠くまで見渡せます。

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▲小樽の風景。昨日の夜に散歩した埠頭公園、運河沿いの町並みも見える

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▲小樽・石狩湾を背景に祖父と。

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▲西側の第2展望台から。

しばらく一緒に天狗山を散策してから、以前と比べてだいぶ足腰の弱くなった祖父をロープウェイ駅のカフェに残し、自分は一人で天狗山のトレッキングコースを歩きました。地図をぱっと見た感じ、10分くらいで一周できるかな、と思っていたら、割と本格的な登山道です。結局、1週するのに早足で30分近くかかりました。

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▲天狗山トレッキングコース

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▲雨が上がって、むしろ日差しが強くなってきました。トレッキングで汗をかいた後は、小樽を見下ろせるカフェで一服。



祖父が小樽に住んでいたのは10歳くらいまで。その後、何度か旅行で小樽には来ていたそうですが、天狗山に登る機会には恵まれず、ここに来たのは実に約70年ぶりとのこと。山頂から見る小樽の町並みは、当時と比べるとだいぶ変わっているはずですが、それでも祖父は思い出に残る景色と現在のそれとを見比べて、自分の幼いころを振り替えてっているようでした。地元の人と会うたびに、「小さいころここに住んでたんですよ。いやぁ、懐かしい」と挨拶する祖父はとても嬉しそうに話し、その顔には幼さが戻っているようにも感じられます。

「いやぁ、天狗山には何度も来ようと思ってたのに、ずっと機会に恵まれなくってね。やっと念願が果たせた。今日で…寿命が5年くらい延びたよ。」

自分はまだ20年そこらしか生きてないので、70年ぶりに見る景色、というのはその目にどう見えるのか、想像もつきません。が、祖父の満足そうな顔を見ると、ここまで一緒に来て良かったなと改めて思いました。

ロープウェイの駅では、小樽の古写真展が催されており、明治・昭和時代の小樽が白黒写真で展示されています。幸運にも、懇意になった駅の職員さんからそのコピーを譲ってもらうこともできました。天狗山から見る小樽は本当にいい景色です。まだ昼ですが、今日はもうこれだけでも満足。

惜しむらくは、小樽の夜景を天狗山から眺めることができなかったこと。この日はこのあと午後に札幌まで移動しなくてはならなかったので、残念ながら今回はお預けですが、またいつか、小樽の夜景を天狗山から望むべく、もう一度来ます。いつになるかはわかりません。ただ、70年たってようやく念願を果たした祖父を見ると、人生長いスパンで考えようって気にもなります。

中心街に戻ってから昼食をとり、宿で寝込んでいる弟を見舞ってから、自分はここで一度2人とお別れです。祖父と弟は小樽にもう一泊していきますが、自分は一足先に札幌へ向かいます。この旅のそもそもの目的でもある、友人との再会のために。





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▲駅前から港に向かって伸びる中央通。そのまま第3埠頭までつながる。見えにくいかもしれませんが、通りの奥にある白い構造物がフェリーです。駅とフェリーがダイレクトにつながっているなんて、洒落た都市設計です。



2010-10-29

『シリコンバレー精神』

『ウェブ進化論』『ウェブ時代をゆく』でおなじみ、梅田望夫氏の著作。一応、奥付は2006年8月の初版ですが、2001年発行の『シリコンバレーは私をどう変えたか』の改題です。



■梅田本の謎がとけた!
書かれている内容は、96年秋から01年夏にかけてのシリコンバレー情勢についてなので、2010年を生きる僕らが「シリコンバレーのフレッシュな情報」を求めてこの本を読んでも、たいした収穫はないかもしれません。それでもこの本について書評を書こうと思ったのは、ずっと抱いていた、「なぜ梅田さんの一連の著作からは、他のWEB論からは感じることのできない、強い希望を感じることができるのか」という疑問に答えうる、明確な一文を発見したからです。

以前、斎藤孝氏との対談『私塾のすすめ』でも触れましたが、梅田さんの一連の著作からは、くさい言葉でいえば、「未来への無限の可能性」を感じられるというか、読んでいてとても明るい気持ちになれるのです。梅田さんの本には、「世界を良い方向に変える」ことに対してクレイジーと言っても差し支えないくらいに本気で取り組んでいる人々が数多く登場します。そして、人が何かの能力を鍛えようと思ったら、WEBの力を使って距離やお金などの制約を受けずに効率的・効果的な学習がいくらでもできるんだと、いう事例がいくつも紹介されています。これらを読んで、自分は本当にいい時代に生きているんだなぁ、といつも明るい気持ちにさせられますし、読んでいて自分の中に興奮とやる気が沸いてくるのをいつも感じます。少なくとも、何か好きなことに没頭する、ということをこれほど力強く肯定してくれる本に、僕はこれまで出会ったことがありませんでした。

そんな梅田本の「明るさ」や「未来を力強く肯定的に捉えるメンタリティ」はどこから来ているのだろう、というのは、初めて梅田さんの本を読んでからずっと抱いていた疑問でした。

本書の巻末、「文庫のための長いあとがき」に次の文を見つけたとき、その謎がとけたような気がしました。
近未来の方向について、その時点その時点で自分なりの判断を下し(未来から振り返れば間違いだらけであろうとも)、苦しくても断定する表現を心がけてきた。むろん、両論併記の誘惑は常にあった。日本では、オプティミズムに基づき未知の可能性を描くより、ネガティブな問題提起や批判を書くほうが、また判断を下すよりも判断を保留し両論併記をする方が、無難で受容されやすいからだ。
あえて判断と断定にこだわったのは、考えたことを行動に結び付けるには、どうしてもそれが必要だったからだ。そしてもう一つ、断定的表現でモノを書き、それが多くの人の目に触れるということは、自らに強い緊張を課すことになる。迷った挙句に強い表現をした文章は記憶に残る。その記憶が自らに反省を促す。「あそこまで強く断定するのではなかったなぁ」と悩みながら、断定対象の推移を同時代的に眺めつつ考えるのは厳しく辛いことだ。でもそれが人を成長させる。(pp299・300)
ただ楽天的な観測に基づいて「WEBの未来は明るい」と主張されているのではない。情報を吟味し、自分で「断定」することのリスクを負う。その上で人に希望を与えうる文章を書く。それが梅田節だったんだ、とうことがこの一節から伝わってきました。梅田節の「力強さ」は、この梅田さんの「物書きとしての覚悟」に支えられていたんですね。

氏は「本書は、『シリコンバレー精神』でモノを書くということはどういうことなのかを、常に意識しながら書いた」とも述べています(p298・299)。そして「シリコンバレー精神」を「限られた情報と限られた能力で、限られた時間内につたないながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する」ことだと定義しています(p273)。いわば、シリコンバレーについてシリコンバレー精神に基づいて書いているのが梅田さんの本だったわけです。明るい未来を描いてはいるのだけど、同時に迫力もあったのは、この相乗効果のせいだったわけです。

■シリコンバレー精神は普遍的な価値観

なんだか『シリコンバレー精神』の書評というより、梅田さんのメンタリティ分析みたいな内容になっちゃいましたが(笑)、これってシリコンバレーに限らず、モノを書く、主張する、あるいは何かを人に伝えるうえで、欠かせないものなんじゃないかって気がしました。その時点でできる限りの努力しつつ、リスクを負って断定表現をする。そうした上で口から出る言葉からは、常に他人を動かしうるエネルギーや迫力が感じられます。「シリコンバレー精神」に基づいて動く人間は、洋の東西を問わず、人を動かすエネルギーをもっているのではないか。

本書に限らず、梅田さんの本はシリコンバレーやWEBの世界で起きていることが著述の中心にありますが、その根底には、氏の、あるいはシリコンバレーに生きる人々の人生観めいたものが感じられます。単なる技術論ではなく、人生論。それも梅田本の魅力なのでしょう。そしてそれに読者が共感し、一定の支持を得ているのは、梅田さんの人生観や本書の定義する「シリコンバレー精神」がシリコンバレーだけに特有のものではなく、ある種の普遍性を持っているからなのではないでしょうか。
「限られた情報と限られた能力で、限られた時間内につたないながらも何かを判断しつづけ、その判断に基づいてリスクをとって行動する」というのは、人が他人に対して真摯に接するうえでのマナーだともいえます。そして、そうやって行動する人は魅力的ですし、そうやって行動することは人を成長させます。僕には、「シリコンバレー精神」に基づいて行動する人間は、洋の東西を問わず、どこでも一定の評価を得ることができるように感じます。つまり、「シリコンバレー精神」は人類に共通する普遍的な価値観なのではないか…。

自分も、つたないながらもこうやってブログで世に情報・意見を発信しているわけですから、これからはもっと真摯な態度で文章を書かないとだめだなぁ、と改めて思いました。リスクを負っても、これからは「らしい」とか「だそうだ」などといった表現をなるべく使わないように心がけます。それが、自分の成長につながるのですから。