ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2012-01-17

伏見城

何事も、最初は新鮮でも、何度も見ているとだんだん飽きてくるもの。寺と神社ばっかりでもう飽きたー! 城が見てぇ! 城が! …ってことで、お城を見に行くことにしました。通常、京都で城といえば二条城ですが、やっぱり天守閣が見たかったので、目的地に選んだのが、伏見城

秀吉の時代、周囲は
城下町として栄えていた。
■伏見城の戦い

伏見城を立てたのは、豊臣秀吉です。そもそも秀吉の隠居用に建てられた城ですので、それなりに豪華です。

その後、伏見城が歴史の表舞台にたったのが、1600年の伏見城の戦いでした。年号からもわかるように、これは関ヶ原の戦いの前哨戦です。家康の部下・鳥居元忠の守る伏見城を、石田三成の西軍が包囲。城の守りわずか1800人に対して4万人で攻めるという大掛かりな攻城戦で、兵力差を考えればすぐに終わるはずの戦いでしたが、城の守りは思ったよりも硬く、西軍は出鼻をくじかれます。

結局は西軍が城の守りにあたっていた甲賀忍者衆を裏切らせることに成功し、城は炎上しますが、最後まで真正面から攻略することはできませんでした。伏見城の攻略に予想以上の時間をかけてしまったことで西軍の戦略は大きく狂い、これが関ヶ原での敗戦にもつながっていきます。

城門
■その後の伏見城

その後伏見城は関ヶ原の戦いで勝利した家康によって再建され、将軍宣下の儀や朝鮮通信使との会見などにも使用されますが、一国一城令に従えば、京都には二条城もあるため、この矛盾を解消するべく廃城を決定。廃れていきます。

余談ですが、城あとには桃の木が多く植えられたことから、この地は「桃山」と呼ばれるようになりますが、これが「安土桃山時代」の名前の由来です。信長の安土はともかく、桃山って何? って中学生のころ疑問に思ってましたが、要は伏見のことなんですね。豊臣時代の中心地は、伏見城だったということです。


現在の天守閣は、1964年に建てられた遊園地・伏見桃山城キャッスルランドのシンボルとして建築されたもの。この遊園地はのちに潰れてしまいますが、天守閣は残され、今に至っています。

ちなみに、この天守閣が立っている場所は、実際にあった場所とはことなり、耐震構造にも問題があるということで、内部には入れません。あたりは小高い山になっているので、てっぺんからならいい景色を眺められたと思ったのに…。残念です。


人気ブログランキングへ



このエントリーをはてなブックマークに追加

2012-01-15

京都一怖い? 崇道神社

よく行く定食屋さんで「近くに京都で一番怖い神社がある」という話を聞きました。なんでもそこの元神主さんもその店の常連らしく「よく来るから、そのうち会えるんじゃないの?」とのこと。

実際、数日後に元神主さんと会っていろいろと話を伺うことができたので、興味がわいていってみることにしました。その神社の名とは…崇道
すどう神社

■早良親王のタタリ

さて、その崇道神社が「一番怖い」といわれている理由ですが、それは「タタリ」にあります。誰のタタリかというと、早良さわら親王。物語は、奈良時代から平安時代に移りつつある時代までさかのぼります。

平安京を建てた桓武天皇
早良親王の兄で、彼を
死に追いやったのもこの人。
当時は、平安京を建てた桓武天皇の時代。早良親王はその桓武天皇の弟にあたります。桓武天皇は、仏教勢力の強かった奈良・平城京から都を移すことを考え、まずは長岡京の造営にとりかかります。しかし、その途中、長岡京遷都計画の責任者だった藤原種継が暗殺されてしまう事件が発生。早良親王は、この藤原種継暗殺事件への関連が疑われ、失脚。その抗議のために絶食し、まぁ今で言うハンガーストライキですね、そして結局、死に至ります。

しかしその後、皇族のあい次ぐ病死や疫病の発生、洪水などの天変地異がおこり、人々は「これは無罪の罪で死んだ早良親王のタタリに違いない」とうわさします。結局、長岡京への遷都計画は中途半端なかたちでおわり、心機一転、平安京の造営へとすすむわけです。これが、京都のはじまりですので、ある意味、こんにちの京都があるのは、早良親王のタタリのおかげだと言えないこともない…。

この早良親王の呪いが、新都・平安京に及ぶことのない様に、彼の魂を鎮める意味で建てられたのが、この崇道神社です。早良親王は立太子、つまり次の天皇後継者に指名されていたことから、タタリを鎮める意味でも、死後「崇道天皇」の称号をうけました。「崇道」の名前はここから来ています。

■境内

…とまぁ前置きが長くなりましたが、とにかくこの崇道神社は、早良親王の怒りが未だに収まらないのかどうか、幽霊? の目撃証言もとても多いそうです。実際、確かめるべく、足を運んでみました。


確かに、境内はうっそうと茂る森の中にあって人気がなく、かなり不気味な感じがするのですが、いわれてみるほど怖くはない…。

これは、昼間にきたのがいけなかったな、ってことで、日を改めて、夜にいってみることに。今回は、例の同居人・スウェーデン人軍団も同行しました。いや、別に一人じゃ怖かったとかそういうわけじゃないですよ! 奴らがたまたま行きたいって言ったからしょうがなく同行しただけですよ!? ね?。

さて、これが夜の崇道神社の様子。





いや、これは確かに怖いよ。かなり怖いよ。実際一人じゃこんな奥まではいってこれなかったよ…。たしかに何か出てもおかしくない雰囲気。

ただ、驚いたのがスウェーデン軍団が全然ビビってないこと。後から一人遅れて到着したんですが、「えー、もうみんな行っちゃったの? じゃあ俺今からみてくるわー」って平気な顔してすーっと入って、すーっと出てきちゃいました。「怖くなかった?」って聞いたら「まぁ、そこまででも…」と全然平気な様子。なんだか一人で怖がってるのがアホらしくなりました…。なんだろ、文化が違うと怖さの価値観も違うんですかね?

怖かったとはいえ、何事もなく帰ろうとしたそのとき…


出ました。

…ずいぶんかわいいお化けが。

人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加

2011-12-06

宗忠神社

すいません。ブログの更新をだいぶ怠っておりました。11月は紅葉シーズンでいろいろとめぐってたんですが、はやくブログが実際の旅においつくように頑張ります。さて、まる1ヵ月空いてしまいましたけど、前回、吉田山の続きから。吉田神社のすぐ近くにある、宗忠神社です。

なにげなく入った神社で、はじめはほぼ素通りだったんですが、掃除をしていた神主さんにいろいろと教えてもらえたので楽しめました。

■黒住教


宗忠神社は、神道の一派である黒住教の改組・黒住宗忠を祀る神社です。黒住教は幕末に起こった新宗教で、金光教・天理教とともに幕末三大新宗教のひとつに数えられます。

朝日を拝む「日拝」を重んじ、これは黒住宗忠が太陽神である天照大神と一体になる体験をしたことから始まっています。というわけで、この黒住教においては、天照大神と黒住宗忠は同格として扱われているらしく、それはこの宗忠神社の構造にも顕著にあらわれています。

写真下をみていただければわかるように、この神社には本殿が並立して二つあるのです。一方では天照大神、もう一方では黒住宗忠を祀っています。



天照大神との一体化を体験した後、布教を開始した宗忠に帰依する公家や皇室の関係者は多く、宗忠の死後、1862年にこの宗忠神社が創建されました。おとなりの吉田神社とのゆかりも深く、この神社は宗忠の門人が吉田神社から土地の一部を譲り受けてたてたもの。幕末の孝明天皇も宗忠に帰依し、孝明天皇の勅願所ともなりました。



人気ブログランキングへ



このエントリーをはてなブックマークに追加