ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2012-01-23

備中高松城


ふと、岡山まで行くことにしました。本当に思いつきで、終電で岡山まで行って、そのまま泊まって、翌日朝から観光開始。京都から鈍行でも約3時間半。意外と近い。

まず訪れたのは、岡山駅やら約20分。備中高松駅。

■史上空前の奇策 水攻め

目的地は、備中高松城跡。この備中高松城ですが、戦国時代、中国地方に勢力を持っていた毛利氏と、天下統一を狙う織田信長の軍勢が争う最前線に位置していました。備中高松城を守るのは、毛利方の清水宗治。対するのは織田軍団いちの出世頭・羽柴秀吉です。

この高松城、なかなか攻めにくい城で、沼に囲まれて城が建っており、唯一陸づたいに攻めるには、大手門前の狭いあぜ道を通るしかなく、逆に言えば守る側はそこだけに集中放火をすればいいわけですから、攻める側としては、力づくで攻めようと思ったら相当な被害を覚悟しなければなりません。

そこで秀吉が思いついた奇想天外な作戦、というのが「水攻め」でした。

水に囲まれている地勢を逆手にとって、城を水浸しにしてしまう作戦です。高松城は東西および北を山に囲まれ、南には平野が広がっているのですが、南側を堤防でせき止め、付近を流れる足守川の水をそこに流し込み、城を冠水させてしまおうという、日本史上類をみない発想でした。こうなってしまっては補給もききません。

公園の説明板から。
秀吉の気づいた堤(赤線)と、水没した高松城周辺。
秀吉は突貫工事で堤防を築き、これをわずか12日間で完成させました。堤防のサイズは基底部幅24m、高さ8m、上幅12mといわれます。これは城攻めというよりもむしろ土木工事です。秀吉は運のいい男で、この時期はちょうど梅雨。城はすぐに冠水し、孤立無縁となります。

この状況にいたって和睦交渉が行われますが、一度は決裂します。しかし、その間に秀吉のところに飛び込んできたのが、「本能寺にて信長討ち死に」の急報。秀吉は一刻も早く和睦して京都にもどるべく、城主・清水宗治の切腹をとりつけて交渉をまとめます。そして中国大返し・山崎の戦いへと、秀吉は着々と天下人への階段を登っていくのでした。

■蛙ヶ鼻水攻築堤跡

高松駅を降りて、まずは秀吉が築いた堤の跡がのこっているという、蛙ヶ鼻の公園に行きました。あたりは公園として整備されていますが、発掘調査のあとや、戦いの状況を伝える展示がいくつかあります。

堤の跡。明治の鉄道工事の際、土の大半が
持ち去られてしまい、残っているのはほぼここだけ。


発掘された堤の基底部
高さの比較板。てっぺんが堤の高さ8m。
その下が本丸最高部の海抜7m。
水がたまったら、完全に頭まで水没です。
■備中高松城跡

堤の上にたって、「このあたり全部水没したんかー」ってしばらく妄想にひたってから、高松城跡へ。城の遺構はほとんど残っておらず、周囲は公園になっています。


城主・清水宗治の首塚
城の明け渡しとひきかえに死した清水宗治の切腹の様子は非常に立派だったと伝えられ、実際にそれをみた人々の賞賛をうけました。江戸時代の切腹の作法は、この清水宗治のものが元になっていると言われています。本能寺の件ですぐにこの地を去らなければならなかった秀吉も「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」となかなか動こうとしなかったといいます。
清水宗治の辞世の句碑
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
散歩をしていた地元の人にいろいろ話を聞けたのですが、この辺は(最近はさすがにそういうこともなくなってきたものの)もともと水はけの悪い土地柄で、30年前くらいまでは梅雨の時期は辺り一面水浸しになっていたそうです。

ともあれ、この備中高松城の水攻めと、それに続く中国大返しは、戦国時代のなかで一番好きなエピソードです。実際にこの地を訪れてみて、「こんな広い地域が水浸しになったんかー」って改めて驚きました。

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2012-01-21

乃木神社

伏見シリーズ、続きます。明治天皇 伏見桃山陵を訪れたあと、地図に気になる文字を発見したのでそのまま行ってみました。それは、乃木神社

普通、乃木神社っていったら東京・乃木坂の乃木神社を指すと思いますが、調べてみると乃木の生まれ故郷・下関や、別荘のあった那須など、彼にゆかりのある場所に他にもいくつかあるんですね。

で、この伏見の乃木神社は乃木希典にどんなゆかりがあるかというと。…それが特にないんです(笑)

■乃木希典

この神社の祭神・乃木希典のぎ まれすけは明治時代の軍人で、日露戦争で旅順要塞攻略戦を指揮。日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎とともに「英雄」と称されます。しかし、明治天皇が崩御されると、それを追って乃木も殉死。これが国内だけにとどまらず、世界に衝撃を与えました。最近では、大河ドラマ『坂の上の雲』で注目度も上がってます。

乃木希典


この神社は、その乃木の殉死に衝撃を受けた村野山人という実業家が、私財をなげうって乃木将軍の人となりを後世に伝えようと建立したもの、ということです。

その性格上、神社の中には乃木ゆかりの品なんかを展示した資料館なんかがあって、いろいろ楽しめました。写真下は、乃木が生まれ育った長府の生家を再現したもの。


こちらは、資料館。その外装はなんと乃木が日露戦争のときに指揮所として使っていた民家を買い上げ、わざわざ中国から移築してきたもの。…気合入ってます。


というわけで、この伏見と乃木に直接の関わりがあるわけではないのですが、あえて「なぜ伏見?」と問われれば、それは彼が殉じた明治天皇の陵墓がすぐ近くにあるからでしょう。実際、乃木神社は明治天皇陵に寄り添うように、すぐふもとに建っています。


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2012-01-19

伏見の諸天皇陵

伏見城からの続きです。せっかく伏見まできたので、近くを散策。京都には天皇陵、つまり天皇の墓がたくさんありますが、伏見エリアにもいくつかあります。

■大光明寺陵

伏見城に向かう途中、「たまたま」みつけた天皇陵。南北朝時代の光明天皇崇光天皇、加えて、崇光天皇の孫の治仁王はるひとおうのお墓です。これらの天皇はいずれも北朝の天皇で、天皇家が分裂した南北朝時代において、日本の歴史上、公式には「南朝が正統」とされているため、なんと宮内庁のHPにものっていません。後述の2つの陵墓よりも規模は小さく、どうも不遇な扱いが否めない…。

■柏原陵

いわずと知れた、平安京遷都を実行した桓武天皇のお墓。伏見城のすぐ隣にあり、実際、伏見城をめざす遊歩道の途中にありました。

遊歩道は伏見城、明治天皇陵へともつながる
■伏見桃山陵

日本近代の父・明治天皇のお墓。大正天皇以降は東京・八王子に眠られているものの、明治天皇は遺言によって京都に埋葬されることを望んだとのこと。規模はかなり大きく、伏見の丘のほとんどを占めています。古墳のように山が盛られているのが上記2つと異なる。また、昭憲皇太后の伏見桃山東陵も隣接。

南側の階段から登るのが普通のかもしれませんが、
自分は林に囲まれた参道(?) を歩いて西方向から入りました。
途中、伏見城の石垣に使われた石材も
伏見桃山陵からは、南部・宇治方面も一望できる


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2012-01-17

伏見城

何事も、最初は新鮮でも、何度も見ているとだんだん飽きてくるもの。寺と神社ばっかりでもう飽きたー! 城が見てぇ! 城が! …ってことで、お城を見に行くことにしました。通常、京都で城といえば二条城ですが、やっぱり天守閣が見たかったので、目的地に選んだのが、伏見城

秀吉の時代、周囲は
城下町として栄えていた。
■伏見城の戦い

伏見城を立てたのは、豊臣秀吉です。そもそも秀吉の隠居用に建てられた城ですので、それなりに豪華です。

その後、伏見城が歴史の表舞台にたったのが、1600年の伏見城の戦いでした。年号からもわかるように、これは関ヶ原の戦いの前哨戦です。家康の部下・鳥居元忠の守る伏見城を、石田三成の西軍が包囲。城の守りわずか1800人に対して4万人で攻めるという大掛かりな攻城戦で、兵力差を考えればすぐに終わるはずの戦いでしたが、城の守りは思ったよりも硬く、西軍は出鼻をくじかれます。

結局は西軍が城の守りにあたっていた甲賀忍者衆を裏切らせることに成功し、城は炎上しますが、最後まで真正面から攻略することはできませんでした。伏見城の攻略に予想以上の時間をかけてしまったことで西軍の戦略は大きく狂い、これが関ヶ原での敗戦にもつながっていきます。

城門
■その後の伏見城

その後伏見城は関ヶ原の戦いで勝利した家康によって再建され、将軍宣下の儀や朝鮮通信使との会見などにも使用されますが、一国一城令に従えば、京都には二条城もあるため、この矛盾を解消するべく廃城を決定。廃れていきます。

余談ですが、城あとには桃の木が多く植えられたことから、この地は「桃山」と呼ばれるようになりますが、これが「安土桃山時代」の名前の由来です。信長の安土はともかく、桃山って何? って中学生のころ疑問に思ってましたが、要は伏見のことなんですね。豊臣時代の中心地は、伏見城だったということです。


現在の天守閣は、1964年に建てられた遊園地・伏見桃山城キャッスルランドのシンボルとして建築されたもの。この遊園地はのちに潰れてしまいますが、天守閣は残され、今に至っています。

ちなみに、この天守閣が立っている場所は、実際にあった場所とはことなり、耐震構造にも問題があるということで、内部には入れません。あたりは小高い山になっているので、てっぺんからならいい景色を眺められたと思ったのに…。残念です。


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2012-01-15

京都一怖い? 崇道神社

よく行く定食屋さんで「近くに京都で一番怖い神社がある」という話を聞きました。なんでもそこの元神主さんもその店の常連らしく「よく来るから、そのうち会えるんじゃないの?」とのこと。

実際、数日後に元神主さんと会っていろいろと話を伺うことができたので、興味がわいていってみることにしました。その神社の名とは…崇道
すどう神社

■早良親王のタタリ

さて、その崇道神社が「一番怖い」といわれている理由ですが、それは「タタリ」にあります。誰のタタリかというと、早良さわら親王。物語は、奈良時代から平安時代に移りつつある時代までさかのぼります。

平安京を建てた桓武天皇
早良親王の兄で、彼を
死に追いやったのもこの人。
当時は、平安京を建てた桓武天皇の時代。早良親王はその桓武天皇の弟にあたります。桓武天皇は、仏教勢力の強かった奈良・平城京から都を移すことを考え、まずは長岡京の造営にとりかかります。しかし、その途中、長岡京遷都計画の責任者だった藤原種継が暗殺されてしまう事件が発生。早良親王は、この藤原種継暗殺事件への関連が疑われ、失脚。その抗議のために絶食し、まぁ今で言うハンガーストライキですね、そして結局、死に至ります。

しかしその後、皇族のあい次ぐ病死や疫病の発生、洪水などの天変地異がおこり、人々は「これは無罪の罪で死んだ早良親王のタタリに違いない」とうわさします。結局、長岡京への遷都計画は中途半端なかたちでおわり、心機一転、平安京の造営へとすすむわけです。これが、京都のはじまりですので、ある意味、こんにちの京都があるのは、早良親王のタタリのおかげだと言えないこともない…。

この早良親王の呪いが、新都・平安京に及ぶことのない様に、彼の魂を鎮める意味で建てられたのが、この崇道神社です。早良親王は立太子、つまり次の天皇後継者に指名されていたことから、タタリを鎮める意味でも、死後「崇道天皇」の称号をうけました。「崇道」の名前はここから来ています。

■境内

…とまぁ前置きが長くなりましたが、とにかくこの崇道神社は、早良親王の怒りが未だに収まらないのかどうか、幽霊? の目撃証言もとても多いそうです。実際、確かめるべく、足を運んでみました。


確かに、境内はうっそうと茂る森の中にあって人気がなく、かなり不気味な感じがするのですが、いわれてみるほど怖くはない…。

これは、昼間にきたのがいけなかったな、ってことで、日を改めて、夜にいってみることに。今回は、例の同居人・スウェーデン人軍団も同行しました。いや、別に一人じゃ怖かったとかそういうわけじゃないですよ! 奴らがたまたま行きたいって言ったからしょうがなく同行しただけですよ!? ね?。

さて、これが夜の崇道神社の様子。





いや、これは確かに怖いよ。かなり怖いよ。実際一人じゃこんな奥まではいってこれなかったよ…。たしかに何か出てもおかしくない雰囲気。

ただ、驚いたのがスウェーデン軍団が全然ビビってないこと。後から一人遅れて到着したんですが、「えー、もうみんな行っちゃったの? じゃあ俺今からみてくるわー」って平気な顔してすーっと入って、すーっと出てきちゃいました。「怖くなかった?」って聞いたら「まぁ、そこまででも…」と全然平気な様子。なんだか一人で怖がってるのがアホらしくなりました…。なんだろ、文化が違うと怖さの価値観も違うんですかね?

怖かったとはいえ、何事もなく帰ろうとしたそのとき…


出ました。

…ずいぶんかわいいお化けが。

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