■金戒光明寺縁起
金戒光明寺は、浄土宗の開祖・法然によって建てられたお寺です。もともとは比叡山で修行していた法然が教えを広めるために下山したとき、この地で何かを感じとり、草庵を建てたのがはじまりで、浄土宗最初の寺院でもあります。
奥に見えるのが、本堂である御影堂。 |
熊谷直実 鎧掛けの松。源平の争乱時代の武将・熊谷直実が 法然と対峙して出家を決意。脱いだ鎧を掛けたと伝わる松。 |
国の重要文化財にも指定の三重塔。 もともとはお江の夫・2代将軍秀忠の供養塔。 |
ここ金戒光明寺の名前は、幕末史においてよく見受けられます。というのも、全国から浪人が集まり治安の悪化しだした京都の平和を維持すべく、京都守護職に任命された会津藩主・松平容保が陣を構えたのがここだからです。以後、反幕府活動をとりしまる会津藩兵の拠点として機能し、会津配下の新撰組にもゆかりがあります。
言われてみれば、「寺」には似つかわしくない立派な「城壁」が。 |
鉄鋲を打った城門のような門がそびえていた。会津本陣とはいえ、ありようは、浄土宗別格本山金戒光明寺である。が、寺院建築というよりも、丘陵を背負い城郭に似ている。似ているどころか、これにはわけがある。
江戸初期、徳川家は、万一京都に反乱のある場合を想定し、正式の城である二条城のほかに、二つの模擬城をつくった。それが、華頂山にある知恩院と、この黒谷の金戒光明寺である。当節、幕府にとって「万一のとき」がきている。そのため、会津松平藩を京に駐屯させた。本陣は模擬城である金戒光明寺である。徳川氏の先祖の知恵は、二百余年をへて、役立ったといえる。(『燃えよ剣』上巻、p200)
寺は一帯が小高い山に位置していて、頂上からは京都を一望できますし、上の写真のように「城壁」も備わっています。実際にいってみてわかりましたが、これは立派な砦ですね。また、祇園や東海道の終点・三条大橋も近く、立地にもおおきなアドバンテージがあったようです。
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