ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2008-05-20

『私塾のすすめ』

『ウェブ進化論』『ウェブ時代をゆく』の梅田望夫と、『声に出して読みたい日本語』や「三色ボールペン読書術」などの斉藤メゾットで知られる齋藤孝の対談。



自分は、大学入学以降、斉藤さんの本は何冊も読んできましたし、梅田さんの『ウェブ時代をゆく』は、このブログをはじめようと思ったきっかけでもあります。そんな2人が対談本を出すことを梅田さんのブログで知った瞬間、心はもう書店に飛んでいました。

■ウェブ時代の「私塾」


さて、内容についてです。何かを学ぼうとする人にとっては、同じ分野への関心がある人や、その先駆となっている人と、熱く語り合ったり、教えをうけることは、とても強い願望としてあります。それが、インターネットの普及で場所・時間の制約が薄れつつある今、かなり容易になるのではないかというのが、この本のコンセプト。梅田さんのブログによれば、対談を終えた後に「私塾」というキーワードが浮かんだそうです。
師弟関係、塾生同士の関係を「私塾的関係性」と呼ぶとすると、この関係性は現代においては、もっと広がりをもって捉えることができる。少人数の、直接同じ空間を共有する関係だけでなく、インターネット空間でも「私塾的関係性」は成立しうる。(P11)
実際に自分も、とある本の著者のホームページから、著者にコンタクトをとってみたところ、返信をいただいた経験があります。ホームページから著者に直接メールが送れ、著書についての質問などに答えてくれるというものでした。このときは著者-自分という縦の関係だけでしたが、自分以外の質問者との横の関係ができていたなら、それは塾生同士の関係、その空間はまさに私塾といえたかもしれません。

「私塾」という言葉からは、「お互いに顔の見える関係」が連想されます。もちろんウェブ上ではお互いの顔は見えませんが、やり取りを繰り返しているうちに、相手の考えなどはわかるようになってきます。自分は今大学生ですが、こういう「お互いの顔が見える」形式の授業は好きです。ゼミとか、「せっかく少人数だしたまに討論でもやろうか」的なことをする先生の授業とか、これらは情報の発信が双方向的で、能動的に参加できるから、面白いのです。逆に、大部屋での講義とか、一方的に話を聞くだけの受動的にならざるを得ない授業がダメです。実際によくサボります(おかげで単位がとれません)。

実は梅田さんも斉藤さんもそういうタイプであるらしいのですが(笑)、ネット上にこのような私塾的空間が増えるのであれば、大学の意味が相対的に低下してくる時代が来るかもしれませんね。場所や時間の制約を受けないネット空間で少人数ゼミのようなものができるなら、大学にいく必要は薄れていきます。


■斉藤-梅田の志向性の違い


今まで読んできた斉藤本・梅田本は、どれも読んでいて興奮を伴う、面白い本ばかりでした。この対談で気づいたのは、その両者の興奮の質の違いです。というのも、二人の嗜好性の違いが、はっきりと浮き彫りになったからです。
斉藤:梅田さんは、どんな子でも、どんな若者でも伸びると、前提として思っていらっしゃるのですか?
梅田:そうは思っていません。(中略)個人的には「上を伸ばす」ことに興味があります。やる気があって目を輝かせている人がどんどん伸びていくのを促したり、支援したり、手伝ったりということに、僕自身は強い関心があります。(P69)
斉藤:僕は結構、「無理やり」ということが好きなのです。やる気のない、ぐたっとした雰囲気の連中を変えていくというのが、むしろ快感だったりします。(P78)
やる気のある人をさらに伸ばすことに興味がある梅田さんと、やる気のない者を底上げすることに興味がある斉藤さんの本は、読書感の違いに現れていることに気がつきました。梅田さんの本は「おまえら、やる気があるんだったら、今は勉強するのにこんなにいい時代なんだぞ」といわれている気がして、やる気が更なるやる気を引き起こす、そういう興奮を引き起こす本です。

それに対して斉藤さんの本は「こうやれば、誰にだってできるんだ。さあ、やってみよう」というスタンスのものが多くて、「今までこんなことしようなんて思わなかったけど、それならやってみようかな」的な気分になります。

どちらもやる気が出る本なので読んできて気持ちがいいのですが、このことがわかったこれからは、シチュエーションに応じて両者の本を読むことができそうです。ちょっと勢いづいているときに更にスピードをつけたい気分のときは梅田さんの本。走るのがおっくうな気分のときは、斉藤さんの本、という様に。

■好きなことを貫く


好きなことを貫く生き方がしやすくなった時代であるということは、梅田さんのこれまでの本から、伝わってきました。今回、それが更に突き詰められて、
梅田:僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、(中略)自分の志向性というものに意識的にならないと、サバイバルできないのではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです。(P146)
とまで言われているのが印象的でした。自分が何に向いているのか、何になら没頭できるのかを考えないと生きていけない、そんな時代。この言葉には、自分のやりたいことをやっていいんだ、と励まされると同時に、自分の志向性をきちんと見極めるのも大切だなと感じました。こういう時代を吉ととらえるか凶ととららえるか、好きなことがはっきりしている人間にとっては、前者ですが、そうではない人はどうなのでしょう。

内容は全体的に、今までの2人の主張をお互いに確認しあっている感が強かったです。今までの両者の本を何冊か読んでいる読者にとっては、目新しいフレーズはあまり見受けられないかもしれませんが、二人とも、相手の考えを自分の言葉にして言い直すのが上手だなと感じました。

あと、あれだけ大量の本を出版しつづける齋藤さんが、なぜブログには手を手を出さないのか。実際に梅田さんも対談で「ブログを書いてみたらどうか」と勧めているのですが、それを断り続ける理由がわかって、ひとつ納得がいきました。

2008-05-15

『堂々たる政治』

前安倍政権で官房長官を務めた、与謝野馨(よさの かおる)氏の著。氏は与謝野鉄幹・晶子の孫でもあり、小泉政権でも何度か閣僚ポストを経験した政治家。最近は、ポスト福田としての期待度も増しています。最近発売の本ですが、発売と同時に書店から姿を消していたので、思った以上に売れたのかもしれません。再び書店に並んでいたので、今度は買いそびれないように購入。奥付をみると、初版の10日後に3刷になっていました。



新潮新書からは、麻生太郎の『とてつもない日本』も出版されているので、割と人目につきやすいのかもしれません。安倍前首相の『美しい国』以降、知名度の高い政治家が新書を出版するケースが増えていますが、これは歓迎すべき風潮ですね。安い新書で、著者も「わかりやすく」を第一に書くので、政治家が何を考えているのか、国民に伝わりやすくなります。

もっとも、政治家にとっては印税やら出版記念パーティで活動資金源になりますし、多くの国民の目に触れる分、ハードカバー本に比べると、あまり突っ込んだことは書かないという側面もありますが。
さて、内容ですがおおざっぱにわけると
  • 第1 - 3章 :小泉・安倍政権の総括
  • 第4 - 5章 :これまでの政治遍歴
  • 第6 - 終章:自身の政策
となっています。1-3章では自身も大きく関った小泉・安倍政権下のできごとについて述べられています。安倍首相退任時の「麻生=与謝野クーデター説」についてもきちんと反論し、小泉・安倍の両首相についても著者の評価が読み取れる部分が何箇所かあります。4・5章の政治遍歴については、与謝野氏の生い立ちや、氏が師事した中曽根康弘氏・梶山静六氏などとのエピソードが沢山あってとても面白のですが、ここでは割愛します。やはり政治家の本なので、パーソナリティよりも政策について述べられている部分を中心に見ていきたいと思います。

■与謝野馨の政策論

市場原理主義批判
割愛した5章までですが、注目すべきは第3章で、昨今の新自由主義・市場原理主義についてきっぱりと批判しています。
私は今でも、小泉構造改革路線は、あの時点では正しかったと思っている。
問題は、この小泉改革の成功によって、「市場原理は常に正しい。小さな政府路線はいつも正しい」ということが「永遠の真理」として証明されたと信じている人、「市場原理主義」と呼ぶべき輸入品の考えを振り回す人々がいることだ。(P64)
「あの時点では」というところがミソでしょうか。小泉=竹中改革について「富めるものがさらに裕福になり、貧しい人はさらに貧しくなったというが、あの時点ではああするしかなかった。あの時点で何もしていなかったら、日本全てが貧しくなっていた。あと少しで沈没する船がある。船員は救出されたが、乗客は溺死した。それでも、皆が溺れ死ぬよりかはマシだった」という評価を聞いたことがあります。与謝野氏はこの本で状況が目まぐるしく変わる現実を見つめる政治家は、それに合わせて自分の意見も臨機応変に変えなければならない、としきりに主張しています。曰く「君主豹変せよ」だそうです。あの時点で正しかったからといって、今後も市場原理主義が「永遠の真理」であることは決してないと言っています。
割り勘国家論・増税論
第6章では、与謝野氏の国家観が展開されます。
国と国民というのは、字句は異なるが同義語だということを忘れがちだ。
国家とは、国民が割り勘で運営している組織に過ぎない。…あくまで割り勘でやっている組織なので、国民と乖離したところに国という別の組織があるわけではない。(P147)
「国家とは自己保全を目的とした官僚機構であり、必要悪である」と主張する佐藤優の国家観と比べると、国民が国家の主体、あるいは同一体であることが強調されていて興味深いです。しかし本章で著者が述べたいことは国家観ではありません。国家は割り勘の組織であることを前提とした上で、日本の財政が危ないので、これからは割り勘の負担を増やす、つまり増税が必要だ、ということです。与謝野馨は谷垣禎一らと並ぶ自民党内屈指の増税派です。
結局、財政再建をするためには、消費税率を10パーセントまで引き上げるところまでは、国民に耐えていただかなければならないことになる。これは否定できないことだと思う。皆で割り勘の額を増やさなくてはいけない。
「増税よりもまず、無駄遣いを無くせ」という批判に対しては、財政赤字の金額と無駄遣いの金額では、予算の規模が違うと述べています。
上げ潮路線批判と両輪路線
「上げ潮路線」とは、主に中川秀直などが主張する経済成長路線です。基本的には経済成長にストップをかける増税に反対で、経済成長を第一と捕らえる人たちのことです。著者の理解によれば「小規模なインフレを人工的に作りながら名目成長率を伸ばすことで、税収が伸びるからこの先も大丈夫、という考え方」(P168)です。これに対し、著者は「両輪」路線を提唱しています。
…財政が再建できなければ、日本の国全体の格付けは低下するばかりで、成長力が阻害される。つまり、財政再建と成長力の強化は車の「両輪」なのだ。私は一貫して「両輪」路線を主張し、元祖「両輪」派を辞任している・
「上げ潮」路線との大きな分かれ目は、インフレ頼みの再建か、増税を含めて考えるか、その違いである。
「上げ潮」路線に対して、著者はこの章で「幻想である」と一喝しています。自分は正直、経済・財政の分野に関しては全くの素人なので、「増税で国家支出と歳入のバランスをとらなければ国家は崩壊する」という主張と「増税は消費を低迷させ、景気を悪くする」という主張のどちらが正しいのか、判断がつきかねます。専門家の間でも意見が分かれる難しい問題のようですが、どちらが正しいのでしょうか。

■与謝野馨はポスト福田たりえるか


最後に、本書とは関係ありませんが、政界での与謝野馨のポジションにいて見てみたいと思います。最近、与謝野氏をポスト福田候補として推す声が高まっているようですが、これは実際にはどうなのでしょうか。

まず、真っ先に気になるのが、現在与謝野馨は党内無派閥であるということ。麻生太郎・小池百合子・谷垣禎一などは、それぞれ自分の所属する派閥があり、その派閥の人数分は、ほぼイコールで総裁選での得票数になりえます。与謝野氏は一時期志帥会という派閥(伊吹派)に所属していたこともありますが、現在は無派閥。派閥に所属しない議員が自民党の総裁になったことは、今まで一度もありません。

自民党内で派閥の力自体が弱まっている現在、福田が選ばれた総裁選の様に派閥の拘束が聞かなくなる場合もありますが、無派閥の議員が総裁選でどこまで戦えるのかは疑問があります。
また、面白いのは本書の上げ潮路線批判で槍玉にあがっている中川秀直が、最近ポスト福田に意欲を見せているということです。仮に与謝野・中川の両人が総裁候補として手を上げれば、政策面で真っ向から対立することになります。これは総裁選の構図としては、選ぶ側もわかりやすく、国民の関心も高まるでしょう。

さらに、民主党の勢いが強まっている時期に、総選挙の顔として与謝野馨に集票能力があるのかという疑問があります。選挙の顔としてなら、麻生や小池の方が格段にインパクトがあるでしょう。先日の補選で敗北し、自民党に逆風が吹く中で、与謝野馨に自民党の救世主となるだけの素養があるか、といわれれば、少し印象が薄い気が否めません。個人的には、与謝野氏は主義・主張がハッキリしている人間なので、総理大臣よりも大臣や党役職として活躍して欲しいと思っています。最後に、ポスト福田に関して気になる記事を見つけたので、紹介しておきます。

上杉隆「『ポスト福田』候補を決定的に変えた2つの記事」
麻生と与謝野の再接近は、麻生=与謝野クーデター説の再来か!?

2008-05-12

Slovakian Sisters

その日は、プラハで古川さん・まりこさん・眞熙とオサラバした後、プラハ中央駅から夜行列車でポーランドのクラクフへ向かう予定だった。
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…が、クラクフ行きの最短ルート・オストラーヴァ Ostrava経由の便は満席。予約が必要というわけでもないけど、コレじゃあ車内で寝れない。今日は一日朝早くからプラハを観光して、おしゃべり眞熙に付き合って、だいぶ疲れていた。夜眠れないのはツラい。今まで夜行列車がこんなに込み合うことはなかったが、週末だからだろうか。

仕方なく、時間がかかることは覚悟でスロヴァキアの首都・ブラティスラヴァ Bratisrava経由でクラクフを目指すことにした。幸い、こちらの路線は込み合うこともなく、じっくり睡眠をとって、疲れを癒すことが出来た。朝方5時、ブラティスラヴァに到着。そこからジリナ Zilinaで乗り換えて、クラクフを目指す。ヨーロッパの電車は、どんな鈍行でも、地下鉄でも、ボックスタイプの向かい合った客席が一般的。ブラティスラヴァ発の電車では、自分の前に少女とお母さんの親子が座った。

ブラティスラヴァ - コシツェ Kosice間という、スロヴァキアの首都と第2の都市を結ぶ路線なので、日本で言ったなら東京 - 大阪間の東海道線みたいなものだ。だが、正直退屈である。景色はずっと田舎じみていて落ち着くが、あまり変化がない。ただ、駅に止まるたび、乗り降りがある。途中の駅で、小さい女の子が2人座った。

大きな地図で見る
何の変哲もない道中に変化が起きたのは、その子達が退屈しのぎにか、突然歌いだしたからだ。その声は、すぐに客車中に響き渡り、歌いだす2人を見て、周りから同じくらいの年の女の子達が集まり出してきた。次々と集まりだす少女達。客室はあっという間にライブ会場になってしまった。自分の前に座っていた少女も、当たり前の様にそれに加わりたがる。お母さんが相槌をうち、さらにメンバーが一人増えた。最終的に、7・8人集まったと思う。

凄かったのは、歌がきちんとパートに分かれていて、きちんとハモったり、ソロパートになったり、手の振り付けなんかもあったことだ。きちんとしたゴスペルだ。
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歌い終わった後に、思わず拍手をしてしまった。自然と目が合う。思い切って「もっと歌ってくれ」って頼んでみると、彼女達は快くリクエストに答えてくれた。前日、眞熙の勧めで初めてのジャズバー生演奏を聞いていたが、それとはまた違った感動と興奮が身を襲った。
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そのうち、シスターらしき先生がやってきた。彼女は英語が出来たのでいろいろ聞いてみると、彼女達は、スロヴァキアの修道女見習いなんだそうな。これから大きな教会へ行き、しばらく俗世との関りを絶って、修行の身となるらしい。歌がゴスペルっぽかったのには、そういう理由があった。彼女達の多くは、両親が先立って、孤独の身らしい。教会で修道女となることで、生活が保証される。

しかし、彼女達の歌には暗さのかけらもなく、生き生きと、朗らかに歌う。こんな可愛い娘たちが仕えてくれるなんて、神様はさぞ幸せ者だなーと思った。

自分が日本から来たこと、名前を「TOYOTA」ということを告げると、ちょうど横を、車を積んだ貨物列車が併走したこともあって、これがウケた。お返しに日本の歌を聞かせてあげたり、彼女達の名前を無理やり漢字にあてはめて、筆ペンで書いてあげたりしているうちに、だいぶ打ち解けられた。
彼女達がやけに熱心に聞いてきたのは「ゲイシャ」についてだった。こっちでは渡辺謙・チャン・ツィーの『SAYURI』が人気を得ているらしく、芸者についての興味が高まっているらしい。自分も詳しくはないが、彼女たちが娼婦ではなくプロフェッショナルであること、日本のサムライでヒーローのリョーマ・サカモト(坂本龍馬)やコゴロー・カツラ(桂小五郎)の妻は芸者だったことなどを話すと、喜んでくれた。

さらに、彼女達は歌を教えてあげるから、一緒に歌おうといってくる。なかなか発音が難しかったが、面白い曲だった。確か『オフォレラ・ミシュカ・マラ』という歌で、なんらかのストーリーのある歌だったと記憶している。どなたかご存知ないだろうか。
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そのうち、乗換えをするはずのジリナはとうに過ぎ、電車は終点のコシツェに着いていた。場が盛り上がってしまっていたので、今さらここで乗換えだとは言いにくかったこと、なによりもこの旅行では現地人とのふれあいを大事にしたかったことから、そのまま終点まで言ってしまうことにしたのだ。

コシツェに着いても、道中すっかり仲良くなっていたので、先生のお許しのもと、修道女のうちの一人が自分をコシツェ案内に付き合ってくれた。スロヴァキアは、特に目当てがあったわけではないけど、彼女達との出会いも含めて、とても人々の優しさが伝わってくるいい国だった。
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余談ですが、この後、旅のスタイルにバックパッカーを選んでホント良かったと思いました。地元人のナマ歌聞けたし、気まぐれで目的地帰られるんだから、普通の旅行では味わえない旅がしたいなら、やっぱバックパッカーです。


2008-05-10

『知ることより考えること』

池田晶子さんの「41歳からの哲学」シリーズ第3巻。いつも、これが読みたくて週刊新潮を立ち読みしていました。



固定観念を捨てて読まないと、たまに頭ん中がこんがらがります。池田女史の言葉を素直に感じないと、何を仰っているのか、さっぱりつかめなくなるときがあります。ですがそれだけ、物事の本質を突いているってことでしょう。納得がいくと、視界がひとつクリアーになった気がします。

生きるということは、大変なことなのである。しかし、そもそもなぜ我々は、そんな大変な思いをしてまで生きなければならないか。
これを今さら考えてみると、どうも理由がよくわからない。「どういうわけか」生まれてしまったのである。生まれてしまった、存在した、存在が存在するということには、どう考えても理由がない。人生が存在するということには、どうやら理由がないのである。
だとしたら、ひょっとしたら人生というものは、何ものでもないのかもしれないのである。(P42)
存在が存在するという、謎。これを著者は飽きもせずに考えているように思われます。

なお、これにも関連して、本書には以前紹介した『国家の品格』に触れた部分があるので、紹介しておきます。
『国家の品格』の危うさがそこにある。主張されている内容は完全に真っ当である。しかしその主張のされ方が危ういのである。
「最も重要なことは論理では説明できない」と筆者は言う。その通りである。人を殺してはいけない論理的な理由は見つからない。その理由はわかっている。(我々が)存在するとはどういうことなのか、そもそもこれが論理的に理解できないからである。この問いを因り具体的に開いてみると、「なぜ私は日本という国に生まれたのか」これは論理的には説明できないのである。(P120)
彼女は日本に生まれたのは偶然である。確かに日本には素晴らしいものがあるが、それは自分が偉いというわけではない。偉いのではない。そのことから「日本人だからすばらしい」「日本人だから誇りを持て」と主張を捻じ曲げられやすい、本書の危うさを指摘しています。著者に言わせれば、「国家の品格」よりも「人間の品格」なんだそうです。ごもっとも。

学生時代、『JJ』の読者モデルを務めたこともあった著者。カバーの写真、60年生まれなのに若い&綺麗すぎです。そんな彼女も07年、お亡くなりになられました。まぁ、本人にとっては何の問題もないのだろうけれど。「言葉を売る」のが仕事である文士の中、この人の言葉には説得力がこもっている。哲学者って、こういう人のことを指す言葉なんだろうと思います。

2008-05-08

『国家論』

『国家の罠』で有名になった佐藤優の、本格的な国家論。副題は「日本社会をどう強化するか」一度読み通してみたのですが、その場その場で理解するのが精一杯で、全体を俯瞰しながら読むことができなかったので、メモを頼りに、もう一度読み直してみたいと思います。幸い、著者は結論への作業仮説や論理構成を提示しながら持論を展開してくれているので、道に迷う心配はありません。地図を見ながら、もう一度著者の思考をなぞってみたいと思います。


序章 国家と社会

国家論のための社会論
まず、『国家論』とはいいながら、「社会」についても、相当な論考が加えられています。曰く
…国家と社会は、21世紀の日本に生きるわれわれにとって、渾然一体となっている。ですから、どこまでが国家でどこまでが社会なのかということは、分からないというのが通常の状態なのです。(P11)
社会と国家は切り離すことができないのか。あるいは、国家のない社会とは、ありえないのか。この疑問には、著者はアーネスト・ゲルナーの説を援用してこの様に述べています。
…産業社会においては、国家は必ず存在するとゲルナーは言っている。
その根拠は、人を産業社会に対応させるためには、長期間の基礎教育を受けさせなければならないが、その基礎教育の負担に耐えるだけの資源があるのは、国家しかない、したがって国家の存在は必須だ、ということになります。(P10-11)
なお、ゲルナーは社会の発展段階を3つに分けており、一番初めの「前農耕社会」では、社会には国家は存在しないそうです。次が「農業社会」で、最後が「産業社会」。これが、現代の社会です。この現代の産業社会で、国家と社会が一体となっているのなら、どうやって国家について考察すればいいか。著者は思考実験として、国家から社会を排除してみる、そのような作業仮説を提示します。
区別されるが、分離できない
国家と社会は一体となっているが、完全に混ざり合っているわけではない。「区別ができるはずです。ただし、それは分離されていないのです」(P20)ここで著者は、得意の神学を生かして、カルケドンの定式を持ち出します。
カルケドンの定式とは、451年に行われたカルケドン公会議での結論のことであり、「キリストは神でもあり、人間でもある」という、いまいちよくわからない結論です。つまり、イエス・キリストの人間性と神性は、区別されるが、分離できないのだそうです。
…国家と社会というものは、イエス・キリストにおける神性と人性のように、「混乱もせず、転化もせず、分割もせず、分離もしないものとして」、つまり、知的な努力では区別が可能でも分離は不可能なものとして、我々の前に現出していると言えるのではないか。これが私の作業仮説です。(P28)
では、分離できない国家と社会から、どう国家論を導き出すのか。
われわれの関心は、国家にあるのですが、ここでは社会の構造を解明することによって、その解明から漏れてしまう部分に国家の特徴を求めるという方法をとりたいと思います。これは、否定神学の応用です。(P32)
『国家論』の目的
P47から、佐藤優がこの本で何をしたいのか、いわば、本書の目的が明かされます。9.11以前の世界では、グローバリゼーションに対抗しうる軸といえばアンチグローバリズムしかなく、それはときどき資本の論理と対立するとはいえ、基本的に非暴力でした。しかし、アルカイダの様な暴力に訴えるかたちでの反グローバリズムが登場すると、それに対抗すべく、国家や、それを維持する官僚は「きれい好き」の特性を強め、どんどん国民への干渉を強めていきます。「テロを未然に防ぐ」という旗の下に、国家の統制が強くなるのです。国家の暴走が始まるのです。人々は「国家の罠」にはまりやすくなるのです。
では、国家の暴走に対抗する具体的な対案はあるのか。国家によってきれいな社会を作るのは不可能というとことがポイントです。国家は社会ではなく、自己保全のことしか考えていない。アルカイダ的なテロが起きたら、官僚は生き残れない。だからテロは嫌だということです。われわれもアルカイダが嫌だというなら、社会を強化しないといけない。(P49)
つまり、9.11以後の世界で暴走を強める、国家・官僚へ対抗すべく、社会を強化するための設計図が、この本です。
佐藤優によれば、日本の現状をこのまま放っておくと、近未来に2つの地獄絵が出現することになります。第1は、新自由主義化の格差がもたらす地獄絵。格差の広がりによって、低所得者は自分の範囲でぎりぎりの生活しか出来ず、子を生み育てることすら難しくなる。さらに、高額所得者と低所得者の間で、同じ日本人であるという同胞意識が薄れていく。第2は、国家の暴力がもたらす地獄絵。国家の実態とは「税金を取り立てつことによって生活している官僚」であり、放っておけば、国民のためではなく官僚のための国家暴力が生まれるといいます。
結論の頭出しをすると、社会は社会によってしか強化されません。そしてまた、国家も社会によって強化されるのです。国家は必要悪です。社会による監視を怠ると国家の悪はいくらでも拡大します。社会が強くなると、国家も強くなります。そして、強い国家は悪の要素が少なくなるのです。(P51)
ここから、日本社会の構造を解き明かす第一章へと移行します。


2008-05-06

ゲイ術の都

あれは…確か07年の12月、クリスマス目前の22日のことだった。

パリに到着して2日目。昨日は、ペール・ラシェーズ墓地の近くのユースホステルに泊まった。バスティーユ方面へ行こうとして歩き、休憩に教会脇の公園でタバコをふかしていたら、一人のフランス人と、仲良くなった。
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名をキャメール Kamelといった彼は、なかなかの紳士で、フランス語を教えてもらっているうちに、だいぶ打ち解けた。英語が通じたのが、大きかった。

「何しにフランスに来た?」
「旅行だよ。西洋史を勉強してる。パリは見所が沢山合って、どこから見ようか迷ってる」
「ほう。西洋史か。フランス史には興味あるか。俺の先祖は、ナポレオン戦争に従軍してたぞ。平民あがりだったが、スーシェ元帥の部隊にいた。一時期は副官クラスまでのしあがったらしい」
「すごいなそれ。スーシェの副官って、史料探せば名前残ってそうだよね。それで、ワーテルロー後まで生き残ったの?」
「いや、第4次対仏大同盟の時期に、プロイセン国境あたりで戦死したらしい。それも、副官に任命された直後だったみたいなんだよ。だから、記録に残ってるかどうかは、知らない。その未亡人が、俺のじいさんの…ばあさんの…」
「へぇ、日本じゃ、自分の家系のことなんて、皆知らないことの方が多いよ」
「フランスでも、今はそうかもな。俺は、じいさんがやたらと昔話を語りたがる人でね。記録のことも、じいさんに聞けば解るかもな。もっとも、彼は今はもう天国だけど。それより、どこに泊まってる」
「あっちだよ。ここから10分くらいのユースホステル」
「俺の家もそっちの方向だ。良かったら、遊びに来るか。コーヒーでも出すから、ゆっくり話でもしないか」

という成り行きで、キャメルの家にお邪魔することになった。その日は他に行きたいところがあったのだが、現地人との出会いは、旅行の醍醐味。以前、現地人の家に泊めてもらったこともあったので、頭の片隅で、「仲良くなれば宿代浮くかも」って下心があったのも事実。何よりキャメールとの会話は楽しかった。さっきのナポレオン軍に従軍した先祖の話といい、大統領サルコジ論、パリの都市計画の話など、自分の興味をそそる話題を沢山ふってきた。せっかくなので、お邪魔することにしてしまった。

実際、彼の部屋に入ると、沢山本が並んでいる。知識階級なのかもしれない。
「ちょっと、本棚みてもいいかい」
「好きにしな。でもお前、フランス語は読めないだろ」
「まぁさ、作者の名前くらいは読めるよ」

本棚には、それこそルソーからサルトル、F1、欧州サッカーの本など、実にバリエーションに富んだ本が並んでいた。

「すまん、コーヒーが切れてる。ファンタでいいか。それとも、ビールの方がいいか」
「これから行くところがあるから、ビールは遠慮しとくよ。ファンタをもらおうかな」

しかし、乾杯を終えると、それまで紳士だった彼の態度に変化がおきた。

「俺の部屋へようこそ」
といって、彼は握手とキスを求めてきた。欧州では、挨拶代わりにお互いの耳元で2回キスを鳴らすのは普通。ただ、キャメールはその後に、俺の唇を求めてきたのだ!しかも、舌まで入れてくるから驚きだ。パリには入ってまだ2日目。この街ではそういう風習なのかと、不思議に思ったが、警戒レベルをマックスに上げながら、一応スルーした。

そして、「熱いから脱げよ」といって上着を脱ぎ、自分にも脱ぐよう指示するキャメール。あろうことか、奴はズボンまで脱ぎ、パンツ一丁になってしまった !! この時点で、自分のアタマには「ゲイ」という単語が浮かんでいた。頭の危険報知器はうるさいくらいに反応している。…が、「確認しないといけない」と思って、踏みとどまった。

せっかく休学してまで欧州にきたのだ。どうせなら、ブっ飛んだ体験を重ねたい。「ゲイのような人が自分の家でパンツ一丁になっているのを見た」と「ゲイに襲われた」では意味が違う。おやじだって、家の中でパンツ一丁になることはある。自分も、熱い夏は自分の部屋で然り。なにせ、この狭い部屋には男しかいないのだ。キャメルにとっては自分の家だし、気を使う必要はどこにもない。内心、危険を感じながらもその場を楽しんでいた。

(確かめよう。ただくつろいでいるだけなのか。それとも…)

たぶん、危険な場所にあえてとびこむジャーナリストや探偵って、こんな心境なんだろう。
「まぁ、座れよ」といってソファーに案内するキャメル。

次の瞬間、自分の心配が杞憂でなかったことが判明する。座らそうとするばかりか、自分を押し倒してくるキャメール。どうやら、寝かせたいらしい。抵抗する自分のしぐさに、どうやら興奮した様だ。終いには、パンツまで脱ぎ、

どうだ?触ってみるか?

といって自分のイチモツを見せびらかしてきた。

マックスで上を向いている。そんなに自分は魅力的なのか。それにしても、欧州産のサイズは、馬鹿にならない。アレは凶器だった。あんなのでされたら、自分の下半身はズタボロになるだろう。自然と、下腹部に力が入る。流石に、深入りしすぎたかと、自分の身に危険を感じる。が、あくまで冷静に対処しよう。そんなに危険な男には見えない。部屋の鍵も閉めないし、出されたジュースも、缶からあけて注いだ。怪しい催眠薬は、入っていないはず。逃げ道も覚えているし、ここは人通りが少ないとはいえ、そこまで裏路地ではない。

「俺にはそういう趣味はないよ。キャメル、あんたはゲイなのか」
「この街じゃ、これが普通なだけだ。特に珍しいことじゃない。お前は体験したことがないのか」
「まぁ、日本人男性の99%は、男同士でそんなことはしないと思う」
「もったいない。これはこれで、いいもんがあるぞ。体験してみないか」
「いいのかどうかは知らないけど、俺は男とキスしても、気持ち悪いだけだ。ましてや男同士で体を重ねるなんて、想像できない」
「お前はさっき俺とキスしたとき、感じなかったのか。まいったな。じゃあわかった。体には触らない。だからもう一度、口付けさせてくれ」
あくまで真面目に、自分をそっちの世界へ引き釣り込もうとするキャメール。あくまで、真面目である。カッフェで議論に花を咲かせるパリジャンの口調と、なんら変わりはない。フランス人は(男はもとより)女を口説くときも、こうなのだろうか。

「わかったキャメル。一緒に写真をとろう。記念だ。俺はあんたと一緒にいて楽しいし、話も面白かった。ほら、さっきのサルコジ論は、なかなか新鮮だったよ。日本じゃサルコジは、あんな報道のされ方はしない。でも、俺はそういうことはしないんだ。わかってくれよ。あんたが嫌いなわけじゃないんだから」
「写真を撮ったら、キスしてくれるか?」
「写真の写りがよかったら、考える。ほら、早く服を着ろよ。裸で写真に写りたいのか」
「わかった。とりあえず写真を撮ろう」
作戦はうまくいった。とりあえず、彼の刀を納めることに成功した。こうして撮影したのが、この写真である。
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断っておくが、自分は男の体に興味はない。自分にとって男は性的欲求の対象ではなく、友情やライバル心・尊敬の対象である。自分が華奢な体型なので、筋肉質なスポーツマンを見てかっこいいと思うことはあるけれども、性的興奮を感じたことは一度たりとてない。女性の体は常に興奮と憧れの対象だが、男のそれは別だ。

話を戻そう。

「良い出来か」
「そうだね。キャメールはこの写り方で満足?」
「なんだっていい」
写真の出来には興味がないらしい。早く約束のキスをしよう。そういってきた。あしらっても、あきらめる気配はない。
「わかった。仕方ない。キスはしてもいいけど、舌は入れるなよ。そこまでしてきたら、噛み付くからね」
「約束が違わないか」
「違わない。俺はキスはするとは言ったけど、男とディープキスをするつもりはないよ。ディープキスは俺にとって、そういう行為の入り口だ。フレンチで我慢して」
残念がるキャメール。実際、今までも性的な意味はなく、挨拶のノリで教会の神父さんに口付けをされたり、男とフレンチなキスをすることは何度もあったので、ディープでもない限り、あまり抵抗は感じなくなっていた。

お前、俺のこと好きか

「・・・。今日あったばっかりで好きかといわれても、答えられないな。話してて面白いとは思うけど」
「じゃあ、嫌いじゃないんだな」
「でも、俺は誰であろうと、男には女性に対して抱くような感情を抱くことはないよ。あんたは友達だ。それ以上でも、以下でもない」
「それじゃ駄目なんだ。お前にとっての特別な存在じゃないと」
「俺にとって、そういう存在になりえるのは女性だけだよ。男には友情とか信頼を感じることはあるけど、性的な興味は全くない」
「もう体のことはいいんだ。さっきのは、俺が悪かった。でも、俺はお前のことが忘れられそうにない」
泥酔したときでさえ、こんなやりとりをしたことはない。なんだこれは。BLの世界だ。心なしか、キャメールの背景にバラの花が見えなくもない。流石は華の都・パリ。演出効果は抜群だ。キャメールは、明らかに苦悶していた。それは自分の愛が受け入れられない、苦しさを語った表情だった。

(こいつ、意外と繊細だな)

と思う。実際、そうだった。自分よりかは、明らかに体格もいい。実力行使にでれば、自分の貞操は奪われていたかもしれない。もっとも、その際は自分とて全力で抵抗するが。俺が嫌なそぶりをみせると、明らかに遠慮する。気持ちが通じていないと、嫌らしい。見た目は完全におっさんだが、心は乙女なのかもしれない。パリジャンの心は、実に奥が深い。

「キャメール、俺はもう帰るよ。待ち合わせがあるんだ」
これは本当だった。待ち合わせがあって、バスティーユのホステルに行きたかった。
「また、会えるか?」
「さぁ、縁があれば、会えるかもしれないね」

そう言って、帰る準備をした。キャメールは丁寧に自分にマフラーを巻いてくれ、最後に一言、こう言った。

「やっぱり、お前は魅力的だ。また会えることを願っている」
正直、男に言われてもあまり嬉しくない。むしろこっちとしては、もう会いたくない。相手がパリジャンじゃなく、パリジェンヌだったらなぁ…と惜しみながら、彼の家を後にした。ただ、相手がキャメールだったことは、運が良かった。相手によっては問答無用で実力行使にでてきたかもしれない。キャメールは実戦よりも舌戦を重視する人間だったらしいのでうまくかわせたが、力の論理でいったら、間違いなく自分の貞操は奪われていた。後で知ったのには、キャメールと遭遇した公園は、そういう人種が多い、パリ20区だった。マレ地区と並んで、パリでは悪名高い地区のひとつ。

もっと悪質な人間に襲われていた可能性もある。その意味では、彼は自分の気持ちを尊重してくれた分、紳士ではあった。相手がキャメールでまだマシだった。

余談ではあるが、キャメールが話した「こういうことは、この街では普通」というのは、他のパリ市民にとっては非常に迷惑な話され方だろう。ひょっとしたら「この街」ではなく「この地区」といいたかったのかもしれない。ただし、男同士で手をつないで歩くおっさんのカップルは、何度か目撃したことも、付け加えておく。加えて、知識人階級には古くからそういう文化があるという話も聞いた。キャメールも知的な人ではあったので、そういう層にいる人間なのかもしれない。

この話を、旅先で会ったバックパッカーにすると何度か「あぁ、確かにトヨタ君、狙われそうだよね」と言われた。「俺、そういう趣味ないですからね」ときちんと反論するが、みんな「どうだか」とからかってくる。

このブログをご覧になっている皆様には、自分の名誉のためにも、きちんと言っておきたい。自分はゲイではありません。願わくば、誤解のあらざらんことを。


2008-05-05

国家の品格


※2006年の夏にmixiレビューに載せたものの刷り直しです。

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こりゃあ売れるわけだ。だって、読んでて気持ちいいんだもん。オビの文言が、「全ての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論」ですもんね。内容は、かいつまんで言うと、近代社会の否定と日本礼賛論。具体的には

01.「論理」を否定して「情緒」「形」の文化の奨励

02.自由・平等・民主主義批判(=アメリカニズム批判)

03.武士道精神の復活を提唱

まず01.論理の批判について。

「論理」に対する疑いを唱える文を読んだのは、たぶん初めてです。それだけになかなか斬新な主張に感じられました。ここで重要なのは、著者の藤原正彦氏が数学者であるということ。論理絶対であるはずの数学者が「論理」の支配する文化を批判している。これには説得力を感じざるを得ません。

ただ、氏が主張するほど「論理」が不必要なものにも思えません。シーソーの体重が「論理」により過ぎている世の中なので、著者はバランスを取るために論理不要論をといているのかもしれませんなが、「情緒」も「論理」もお互い反目するものではなく、共存しうるものなのではないでしょうか。

02.自由・平等・民主主義批判について

自由・平等・民主主義の批判は、保守論客のお歴々がすでに「これでもか」ってくらいやってます。内容も大差はないと感じました。

民主主義に弱点があるのは歴史が証明してますが、かといって「民主主義」に変わりうる社会システムがあるかといえば、クエスチョンマークです。自分は、代用のシステムが見当たらない以上、「自由」「平等」を前提とする民主主義が一番最良のシステムだと考えます。

そろそろ、創造的な批判論がでてきてもいいんじゃないかと思いながら読んでると…

03.武士道精神の復活について

その自由・平等・民主主義の欠点を補うべく筆者が提唱しているのが、「武士道の復権」です。「欠点を補うべく」というのは自分の勝手な解釈、または読み違いかもしれません。卑怯なことは理屈(=論理)抜きに「ならぬものはならぬ」という日本特有の(このテーゼは会津の)武士道精神。これが大衆に備われば、確かに民主主義体制でも社会の質は向上するでしょう。

さらに著者は、武士道を生んだ土壌である、日本の美しい田園風景を礼賛しています。「美しいもの」が品格ある国家には欠かせないという主張には同感です。

全体を通して

まず、講演を文章化したものであるせいか、非常に読みやすかったです。『バカの壁』と同様ですね。

さらに、筆者の主張に自信がみなぎっているので、読んでてとても気持ちがいい。論理を否定してるだけあって、理屈抜きで「こうだ」と言い切っている箇所が多いのですが、主張をとうそうとする場合、根拠に頼りすぎないほうが人の心に通じるのだな、と感じました。力づくで納得させるには、整合性のとれた論理を用いればよい反面、著者の主張する「情緒」への説得を試みるなら、論理に頼り過ぎない「願望」の方が通じるのかもしれません。

余談ですが、案外、小林よしのりに足りないのは、この辺りなのかもしれませんね。彼の論法は、敵対論客へのネガティブキャンペーンにより過ぎている。「ゴーマンかましてよかですか?わしはこういう日本が好きなのだ」と締めくくってみてはいかがでしょう?小林さん。

全体的に、筆者の主張には賛成です。問題提起の意味もこめて、この本が多くの人に読まれるといいな、と思いました。